脇屋友詞さんの『厨房の哲学者』という本を読ませてもらったんですけど、お父さんがその本の内容に利他的なところがあるんじゃないか、読む人はそういうところを意識して読んで欲しい、と仰っていました。読んで思ったことですが、稲盛和夫さんの本みたいに「魂を磨く」とか「よく生きるには」っていうことは特に書かれてなくて、むしろ自分は野心があって、自分で采配できるようになりたいと思っていたというようなことが書かれていました。そういう気持ちで若いときは料理の道を突き詰めてきた、というようなことでした。
それでも、その本を全部読んで思ったことは、この人の生き方そのものが利他的ということかなと思いました。自分を透明にして、一つのことに自分の全部を注ぎ込んで捧げるようにして、いい料理を突き詰めていく生き方そのものが利他的だと思いました。
稲盛和夫さんみたいな心とか魂ということは言ってなくても、生き方そのものが利他的ということなのかなと思ったんですが、どうなのでしょうか?
【お父さんの答え】
今もそうだと思うけど、中卒で働く人ってほとんどいませんね。高校、大学に行きなさいという親御さんがほとんどですね。脇谷さんの世代も、中卒で働きなさいっていう親はいなかったです。だから、中学を卒業する同級生のなかで、ただ1人、彼だけが高校には行かずに、中華料理店のコックとなって働き始めたんですよね。
そのときにね、なんで俺だけが高校に行かせてもらえないんだ、みんながみんな高校で部活をしたり、いろんな遊びができるのに、自分だけは仕事をしなきゃならない。
こういう不平不満を持っていたら、とてもじゃないけどやってられないと思います。
けれども彼は、手相見の父親が、料理の神様がついてるからコックになれと言って、他の選択肢はないまま親の一言で料理人の道に入った。親に逆らえないからコックの道に進まざるを得ない。
自分で選んだ道じゃないけど、目の前にそういう道があるから、それに全力を尽くそうという素直な気持ちがそこにあったんですね。
それが、まず、利己的ではないよね。俺が、何でこんなことやらせられなきゃいけないのか、みたいな反抗心はない。目の前に料理の道があるからやりましょう。
それも、ただお金を得るために、生活費を得るためだけにやりましょうというのじゃない。道を究めようという気持ちだから、毎朝、人よりも早く行って、どんどん自分で練習していって、たちまち人よりも上達していく。
だから20代で、副料理長になってしまうんですね。そういうふうに、どうせやるのなら達人になろうという気持ちが利己的ではないんですね。誰もメモをしている人などいないのに、料理長が作っている姿を見ながら、全部、レシピをメモにとって、全部覚えて、自分のものにしようという心掛けで働いていた。
それが、後で自分の店を開こうとか、そういう気持ちではなくて、その店に入ったからにはその料理を極めようとする気持ちですね。中華料理にも北京料理、四川料理、広東料理などいろいろある。それを全部、覚えよう、極めようとする心です。そこにあんまり私心というか、自分が、自分がと自分を前に出そうとする気持ちはなかったんじゃないか。
ひたすら道を究めようという気持ちが、中卒の15歳のときにすでにあった。道を究めるために生きる、というスタンスは、利己的な気持ちとは対極のところにあるように思うんだよね。
だから、その後、料理人として成功するんだけど、絶対に天狗になっていないし、偉そうなことも言っていない。
ちゃんとした料理人として、できれば全部を知って極めたいっていう心だけでやっていて、成功しても天狗にならないのは、そういう道を究める気持ちを持ち続けているからです。だから成功しても、それに溺れたり、驕ったりする気持ちがないのだと思います。
大成功する人はたくさんいるんです。だけど、ほとんどの人は転落するんです。自分の利己的な欲で仕事をする人は、成功が長続きしません。
大成功する人はいっぱいいるけど、大成功した後に転落しない人はごく少ない。
彼は転落していませんが、正しい利他的な志をずっと持ち続けている人だから、と言い切っていいんじゃないでしょうか。もし本人にお会いできて話しができたら、とても楽しい人だと思います。
(2024年2月5日 掲載)
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