声の違和感
何をどう喋っても、自分の声とか発声の仕方に違和感があります。喋るとき、違和感で、声が自分から浮いているために、多分伝わらないし、自分の声も発声の仕方も正しくなくて、恥ずかしく思います。どう思うべきですか。
(違和感は前からです。最近、本当に嫌に感じています。一番はじめに違和感を感じ始めたのは小学校4~5年生のときです)
〈自分の答え〉
芯のある声を出すことを心がけて話す。そう心がけていくうちに、違和感がなくなり、良い発音で、芯があり、伝わりやすい発声ができるようになる。
【答え】
ということですけどね。うーん、芯のある声を出す、というのははちょっと違うような感じがしますね。
僕が自分で自分の声を初めて聞いたのは、中学生か高校生くらいのときでした。その頃、テープレコーダーを初めて買ってもらって、自分の声を録音してみました。……あ、違うな。知り合いの家のテープレコーダーで録音したんですね。
そのときに「ただ喋るのもつまらないから何か歌ってみて」って言われて『ブルーライト・ヨコハマ』という歌を歌いました。
♪街の灯りがとてもきれいね ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ という歌なんですけど。石田あゆみという歌手が、ちょっと鼻声がかった声で歌う、その当時若くて可愛い女性の歌で、結構、流行っていました。
僕も鼻声っぽく歌ってみたんですね。うまいだろうと思って思い切り歌った。その頃は、ちょっと僕の人生観が変わりつつある時期だったので、人前で歌えたんです。
ところが、自分の歌が再生された途端に、死んでしまいたくなりました。
ナニ、この声、この歌い方。ありえない。下手くそだし、その鼻声が聞いていられないほど醜悪に感じる。自分の声は、こんなに嫌な鼻声だったかって、愕然としました。
それからは、自分の声を聞くのがすごく嫌になりました。例えば、英語の発音練習を聞くのも、ただの話し声を聞くのも、自分の声に関しては一切、拒否的になってしまいました。自分の声を金輪際、聞きたくないと思ってますから、録音、再生に関して自分の声が入ることを拒否したくなっちゃうんですよね。
それだけじゃない、自分の声が気に食わないが、おそらく周囲の人はみんな、この変な声を聞いているんだろうなと思うと――いや、今じゃないですよ、その頃ね――自分としゃべる人は嫌な思いして聞いてるんだろうなと思うと、声を出したくない、喋りたくない、聞かれたくない、しかもなまっている。赤面症にもなりましたし、もう言語障害的な、うまくしゃべれないみたいになっていっちゃったんですよね。
それほど、自分は自分の声が嫌いで、録音した声なんかとても聞けないというような思いがずっとありました。
ところが僕は、その後、大人になって、なのはなファミリーのウィンターコンサートでは、思い切り歌ってるんですよ。喋ってるんですよ。
じゃあ、何でそれやってるのかと言うと、いつからかはわかりませんけど自分の声が嫌じゃなくなったんですね。いい声ではないなとか、歌はうまくもないな、と思ってますけど、それでいいですという感じになったんですね。
自分の気持ちの立ち直り方と、自分の声の受け入れ方というのが、ある種、一致してるんじゃないかなという感じがするんですよ。自分を受け入れるということが出来るようになると、自分のダメな声も、嫌な声も、聞きたくないと思っていたはずなのが、もういいやって、こだわらないっていう感じになってくるんですよね。
それで、あろう事か僕の声が良い声だなんて言う人がいるんですよ。この人ですけどね(お母さん)。
お父さんの声は良い声だから、と。
ありえないと思いますけどね。本当に、ありえない。それは今も思っています。
ただ自分は、歌うときにはやっぱり気をつけてることがありますよね。それは、人生で一番最初に録音した、『ブルーライト・ヨコハマ』の反省から来てます。
何に気をつけているかって言うと、鼻声では歌わないということです。
変な話、例えば、アーっていう声。アーっていうんだったら、鼻つまんでも、鼻から出しても、アーは言えるんですよ。言えない言葉もありますよね。なんだろう言えない言葉って。鼻をつまんだら言えないの。マミムメモ。「マ」みたいなのは、鼻から言わないとマにならないよね。これはしょうがない、やむを得ないから、一部鼻から息を出します。
いや、それだって、マって言っちゃだめなんですよね。歌うときは、「ンマ」って言わないと、「マ」にならない。ワも、「ゥワ」って言わないと、アになっちゃう。
鼻つまんでも言えるような発音は絶対に喉からしか出さない。すると歌が歌らしく聞こえるということなんです。鼻歌にならない。
それを自分に課してやっていれば、下手だろうがうまかろうが良いんだ、これが自分の歌声だという感じで自信を持って歌えば良いんだというふうに思い定めるようになってから、自分の録音した歌を聞いても、恥ずかしいともなんとも思わなくなりました。
良いんです。これが自分だ。この自分が存在してて悪いことはないという、そういうことを思えばどう聞こえても構わないという覚悟ができるというか、ね。
嫌だと思ったら耳をふさげ、僕の声を聴くんじゃない。聞きたくなかったらこのホールから出て行け、くらい、そのくらい思って歌っているんです、本当にね。
なんていうかな、居直った、ある種、居直ったですけど、自分の生き方を肯定して、ありのままの自分でいいやってなってくると、自分の喋り方も、声も、受け入れられます。
それから――せいぜい受け入れて、こういう声でもう仕方ないと思うから、せめて聞き取りやすいようにはっきり喋ろうだとか、語尾まではっきり喋ろうとか、わかりやすく発音しようと。声の良し悪しは良い、音痴かどうかもどっちでも良いけど、わかりやすく聞き取りやすく喋れば良いんだ、そういうふうになってから、恥ずかしくも何ともないです。
この人も、声が悪いとか、浮いてる、浮いてないじゃなくて、こういうあり方で自分は行くぞと心を定めたら、自分の声に対する違和感はなくなるんじゃないかな。
この人が自分の声に違和感を覚えたのは、小学校4,5年生のときからでしょ。つまり、自分の存在に疑問が出てきたときからなんです。だから自分の存在を受け入れられるか受け入れられないかというのと、自分の声を受け入れられる、受け入れられないというのと、似ているんです。自分の存在を肯定して、受け入れたら良い、ということです。
(2019年3月22日掲載)
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