私は、いまだに夢の中で症状が酷かった時と同じ事(過食、過食嘔吐、たくさんの買い物)などをしている時があります。
すごく気分が悪くなるし、悲しかったり、こんな夢を見てしまったという罪悪感を感じます。
これはどう思えば良いのでしょうか?
自分の答え
・まだ依存を引きずっている。
・依存というのは、根深いもの。簡単に消える事ではない。
・夢の中の事は、気にしない。
・その他
これね、こういうことありますよ。
とても自分の調子が悪いときなどは、こういう夢を見ることがあります。
つらい気持ちに向き合いたくなくて、気持ちを逃したいんですよね。過食にしたって過食嘔吐にしたって、気持ちの逃がし先ですからね。買い物依存の人は大量に買い物をする夢を見る。
こんな夢をみるときは、どこか潜在的に気持ちを逃したいというストレスがある、ということです。そのストレスがあるという自覚がなかったとしても、潜在意識でストレスにしている。
そのストレスはどんな種類のものかと言えば、この人の場合は「思うように動けていない」というストレスではないでしょうか。自分自身、認められるような成長ができていないということもあると思います。そしてこの人の場合、たぶんお父さんお母さんから評価されていないだろうな、と自分で思ってるんですよ。それが残念で仕方がない。
で、もっぱらそういうことがストレスとなって「あ、もう逃げ出したいな……」、できることならなのはなから逃げ出したい、みたいな感じになってしまっている、……と思います。
でも、逃げる先はないので、どこにも行けないんです。
この人、わりにちゃんとできている人なんです。だけど、自分の期待値と、自分の自覚が釣り合わないということが問題になってしまっている。
「今くらいの私のポジションになったら、ちゃんとしなきゃいけないのに、ちゃんとできていないな、恥ずかしいな、情けないな、残念だな、どうしよう、だけどどうして良いかわかんない」
そういう焦りが、こういう症状の夢を見させるというだけのことだと思います。
僕は、自分の成長が早くても、遅くても、どっちでもいいと思うんですよ。で、調子のいいときもあれば悪いときもあります。早くどんどん一直線で自我が形成されていく人もいれば、ゆっくり社会性がついていく人もいます。
だけど、どうでもいいんじゃないでしょうかね。どっちでもいいんじゃないでしょうかね、結局、治って自立していくのですから。
そのスピードの違いは、やる気の違いじゃなくて、その人のここまでの環境や、その人の持っている資質によって違ってくる。大器晩成ということが、実際にあるのです。
あの、自分なりの治り方を楽しめば良いんじゃないのかなと思うんですよ。ゆっくりの人はゆっくりなりに、挫折しながら治っていく人は挫折しながら治っていくことを楽しめばいいんじゃないかな、と思うんですよね。
なんていうかな、そういうふうに自分を客観的にもうひとりの自分が見て、「ほんっと、私って駄目なヒト」っていうふうに呆れながらも、見てて、まあまあそれが自分なんだからしょうがないじゃないのっていうね。
僕が思うには、ですよ。
本当に、そっちこっちぶつかり回しながら、なかなか真っ直ぐに行かない人というのはいます。そういう人を見てて「この野郎、憎らしいな」と思うかというと、そうでもないんですよね。
ここに来るまでの傷の負い方だとか、挫折の仕方だとか、人間関係によって、そういうことっていうのは決まってきちゃうところもすごく多いんですよ。
その人の資質ばかりじゃなくてね。
だから、たまたま条件の良かった人、環境の良かった人、たまたまたそういうめぐり合わせの人でどんどん良くなっちゃう人もいるでしょう、そうじゃない人もいますよ。
だけどそれはそれでいいじゃないのと僕は思うんですよね。
だからそんなふうにストレスにしないで、
「ああ、自分はちょっとそういうふうにぶつかり回すんだな」
「自分はゆっくり成長するヒトなんだな」
というふうに思ってくれたらいいんじゃないですか、ということですよね。
人生長いし、何ていうかどうせいつか自立するんですから、ゆっくり楽しみながらそのプロセスを楽しめば良いんじゃないのということで、まあまあ、慌てることはないでしょう。
ここでそういう夢を見るぶんには別にリスクは無いので、何回見てもいいですよ、というと無責任な言い方に聞こえるかもしれないですけどね。そういうことには拘らないですよ、拘らないほうが良いでしょう。
それよりか、もうちょっと気持ち良くできるにはどうしたら良いか、スランプから抜け出すにはどうしたらいいか、と考えればいいだけのこと。スランプになった自分を楽しみ、スランプから抜ける自分を楽しみ、なんでも楽しんでしまえばいい。
こういう時は、自分のスランプは、どういうスランプなのかなというのを、詳しく考えるのも面白いんじゃないでしょうか。それが逃げずに向き合う、ということです。
この人の場合は、今、そういう時期でしょう。でも、もうすぐ集中できる時期が来ると思いますから、心配しないでくださいというかね。
あの……集中できていない人ね、今の、せっかく集中できていなくてコンディション悪いんですから、今のコンディションをよく覚えておいてくださいよということですね。向き合ってくださいよ、今のコンディションにね。
そうすると、自分が良くなったとき、どう良くなったかよく分かるし、人がそういうふうな辛いスランプになってるときに、どういうふうな辛さでなってるのかよくわかりますからね。自分の中にそのつらい状況のつらさと立ち直り方を、しっかり蓄えてくださいよということです。
で、たぶんね、もしかしたらこの中で一番ひどいスランプを経験した人のスランプと、僕が経験した挫折感とスランプは、多分、僕のほうがひどいスランプを経験しています。
僕は若い時、どうせつらいなら最低のひどい体験、最低のひどい挫折をできるだけしてしまおうと思いました。どうせ苦しさを味わうならもっと苦しんでしまおうと思いました。開き直っていたというか、毒喰わば皿まで、という言葉がありますが、徹底して味わうというスタンスで生きることにしたんです。
だからこんな苦しいことがあるのかと思ったとき、もっと苦しんでやろうと思いましたね。もっと出せよと。そういう気持ちですよね。そうするとその苦しいところにいるのがね、あの……何ていうかな、平気になるというか、もっと味わってやろうじゃないかという感じでした。
あのね、これ全然違うかもしれないけどね、僕の息子が小学5年生のときひどい交通事故にあい、頭蓋骨骨折で死ぬかもしれないと言われたことがありました。
3日間の意識不明の後、奇跡的に意識が戻りました。その後しばらく、頭が痛い、頭が痛くて痛くて我慢できないと訴えるんです。痛み止めが効かない。僕はかわいそうだなと思いました。
でも、その時、息子にこう言ったんです。
「お前が感じている頭の痛みは、人類はこれ以上の頭の痛さは味わえない、というくらいの最高の世の中で一番痛い頭の痛みなんだ。せっかくその傷みを経験してるんだから、今の痛みをよく味わっとけばいい」
と言ったら、息子が「お父さん、そういう励まし方ってあるの!?」って――。
だけど、みんなにもそう言いたいです。
つまり、傷みやつらさから逃げようとせず、とことんじっくり味わってやるぞ、と向かっていったら、受け入れられるし、耐えられる。ストレスだけど、そのストレスと真っ正面から向き合うと、そのストレスが解決すべき対象、観察すべき対象になり、ただ逃げたいだけのストレスではなくなる、それを言いたいんです。
集中力がない、というのも、ある種のストレスがずっとつきまとっているからです。逃げずにそのストレスを解決すれば集中力は戻ってきます。
(2018年5月1日掲載)
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