私は、整理整頓、片付けが苦手というよりもできないです。決められた位置に戻すことができません。何か広げると、際限なく広がってしまいます。年がら年中探し物をしているし、無くしたことにさえ気が付かないことも多いです。自分が何を持っているのか、それはどこにあるのか把握していなくて、行き当たりばったりです。物への執着がとても薄くて、大切にできないと思います。
小さい頃からそうでした。1人で海外旅行に行ったとき、1日だけ泊まるホテルがあったのですが、スーツケースを一度開いたら散らかって収拾がつかなくなるという確信があったから、開かないと決めたこともありました。
どうしてこうなってしまうのですか。どうしたら、片付けができるようになりますか。
自分の答え:やりっぱなしにしてしまうことが癖になっているため、意志で片づける。
【お父さんの答え】
これ、無理ですね。片付かない。
これ読んでて、ああ僕と一緒だな、という感じで受け止めましたけどね。片付けって、できないんですよね。
ところが今まで生きてくるなかで、片付けはできなくてもいいやと思えるようになっています。
どうしてか。僕は以前、仕事の関係でいろんな有名著作家の家に行っています。で、書斎というか、その人の家の仕事部屋、仕事場をいっぱい見ています。それでね、気がついちゃったんです。
きれいに片付いてる事務所、きれいに片付いてる書斎で物書きをしている作家は、つまらない文章しか書けない、ということがわかってしまった。(例外の作家先生がいらっしゃったらごめんなさい)
ものすごく尊敬する、すごくいい文章を書く、人柄もすばらしい、という人の事務所は、ものすごく散らかっています。いや、普通に雑然としている。
ものすごい散らかっているなかで、行き過ぎた人をひとり知っています。それは、玄関から、仕事部屋、リビングまで、両側に、新聞がうず高く積まれてて、ちょうど雪国の、なんかこう、雪の壁の中をバスが走っていくシーンがあるよね、あんな感じなんです。狭い通路をリビングだか書斎まで行く。僕が打ち合わせに行くわけですから、少しは片付けているんだろうと思ったら、リビングがこのくらい(古吉野なのはなのリビングくらい)の広い部屋なんですが、こんなに広いのに入っていけない。足の踏み場がないんです。
物をどかしながら、足場をつくって、ソファに辿りつく。そのソファも物が占有していて、それを避けて隅っこの隙間に座る。これはね、これもちょっと有名な作家だったですけど、散らかっているというのも行き過ぎてます。今だったらデータベースがあるので新聞は積み上げてないでしょうね。今の話しは、失敗したな。忘れてください。
じゃあ、なんで普通に散らかってる人の文章が面白くて、きれいな部屋の物書きはつまらないと思ったのか。みんなはなんでだと思います? ちょっと誰かこうじゃないかというのを言ってみてください。これは事実なんです。(例外を除いて)
あゆ:
見切りが早い。切り捨て?
そうですね。整理がうまいという人は、物事に執着がない人なんです。一つ、ひとつの物に執着がない。
いいですか、「心」というか「考え」、アイデンティティにも執着がある人と、ない人がいるんです。そういうアイデンティティにも執着が薄いと、全部トントントンって整理できちゃうんですね。で、僕はどうかというと、ありとあらゆる物にも、気持ちにも執着がある。そこに含まれたほかの微量な何かがあるんじゃないか、と思ってしまう。
僕が高校生のころ、好きなおばさんがいた。そのおばさんからコーラを買ってもらった。普通の缶コーラです。嬉しくて、嬉しくて、それを飲んだんですけど、好きな人から買ってもらったそのコーラの缶、捨てられるわけないじゃないですか。それは、多分、40数年、ついこないだまで保管してありました。実家の物置に。
あのね、ものが捨てられるない。また別の話しで、僕が中学生のとき知り合いにドライブに連れて行ってもらった。その人といった海岸で拾った石。それも捨てられない。
その人は当時、もう人妻ですから、何も起きない。僕より10歳以上は年上で、僕は中学生ですから、恋愛とかそんな対象ではない。でも、その石、捨てられないですね。
それとか、たとえは、こういうふうに折ってる質問の紙があると、これはこの人が折った紙ですね。これ以上、折ったら、この人の心が違うふうに変化するんじゃないかと思うと、これ以上は小さく折れない。このままでおいておきたいという気持ちがある。
この人の心と、この人の紙はこうありたかったんじゃないか、と思ってしまう。それをとっておきたいという気持ちがあると、なにかその、例えばモノにも心を見ちゃうと、そのものがそこに落ちていたいんじゃないか、というふうに思う。そしたら、動かすのが可愛そうなんじゃないかと思いませんか。思いますよね。だから片付かなくなっていくんですね。思い入れが、一つひとつのものに、全部できちゃうんです。
いってみれば情緒ですよ。全部の、消しゴムカスにさえ、あの子が書いた字を消してそれが丸まってる消しカス。捨てるの惜しいじゃないですか。あ、それはちょっと行き過ぎてますね。それは思わない。
極端になってくるとそういう感じに思うということです。
モノを書くときだってそうなんです。例えば、原稿用紙12枚位だと、週刊誌で4、5ページくらいなんです。それを書くには、いろんな取材した材料を、頭の中に広げて、ひとつずつ吟味していく。
どの順番で行こうか。でも、全部は書けないな。じゃあ何を落とすか。すると、どの材料も落とせないわけですよ。うーん、どうしよう、どうしよう、って悩んで考えて、悩んでるうちに自然と、これは大事、これは大事、これはいらない、これは大事、これはいらない、ていうのがね、浮かび上がってくる。気持ちが熟成してくると、これとこれとこれをこう組み合わせてこんな順番で書いていくといい、ああこういうふうな流れで自分が言いたかったことが書けるな、となってくる。
取材先の人をより抽象化された、正しくストライクゾーンで捉えた原稿になるなと思ったら、それが消えていかないうちに、大急ぎでサササッ、と書いてしまう。やった、って思うわけですね。
だけど、それをやるには、それまでに何か、もし見落としもあるといけないから、マシュマロをそっと指型を付けないように並べていくように、そうっと材料を並べて、だけど見落としがあるかもしれないね、とじっくり見ていって、今日はそれでいいと思っても一晩寝て明日になって、なんだこれ、となっちゃうかもしれないからそのままにしておいてみるとか。あるいはゲラで直す材料が足りないとなったとき、ここから拾い集められるようにそのままにしておこう、というふうに思うわけですよ。すると片付けるのも難しくなりますよね。
僕の知ってる編集者でね、雑誌の原稿なんて簡単だ、このテーマについて、反対意見はこうある、賛成意見はこうだ、最後に、さて、本当はどっちでしょうかみたいにまとめればいいんだよ、と言っていた人がいます。
賛成意見と、反対意見を集めて、順番はこれでいく、とやれば悩むことなく、どんな原稿でもサッと書けるんだよ、こんなもの。って言ってた人がいる。はっきり言って、その人、才能ない人だと思います。その人は、片付けるんですよ、ぱぱっと。
ライターの中には、やっぱりじっくり考えてまとめる人が多いですから、その編集者は遅いライターの原稿が待ちきれなくて、自分で編集者をやめてフリーのライターになっちゃった。早いし、筆力の自信がある、と。けれども、その人はすぐに行き詰まってしまったようですね。
情緒ですからね。そういう、割り切りの早い人、片付けがものすごく上手な人、そういう人は情緒もどこかで切ってるんだと思う。片付けできない人は、わりと情緒がある、思い入れが一つひとつ深い人だと思ってください。それも行き過ぎると、今度はジャグリングがが多すぎる人となって困ったことにはなりますが。
適度に情緒を切り、思い入れを切り、時々、適度に整理し、くらいがいいんでしょうね。
そういう意味じゃ、一生をかけて、どの程度の見切りがよくて、どの程度の情緒を持ち続けることがよくて、どの程度の片付け上手で行くかという、落とし所を探す旅をしていくということじゃないでしょうか。
それが人生だというくらい、この切り捨てか、保留か、その中間をとっていくということが、かなり難しいことなんじゃないかなというふうに思いますね。
あゆ:
でも、お父さんの机の上とか散らかってるといえば散らかってるけど、見てて不快な散らかり方じゃないじゃない。それは大事かなと思う。理事長室の掃除とか、細かいものとか落ちちゃいけないものとかは、きれいにテープで止めてある。確かに斜めにいろんな紙はおいてあるけど、きれい。
僕は子供の時から、散らかっててもだいたいどこに何があるかは覚えててすぐ出せるわけ。全部思い入れがあるからね。でも、10センチずらされちゃうともうわからなくなる。だから触ってほしくないというかね。
そういうことなので、この質問の人も整理ができないというけど、それは情緒が深いからだということで、むしろ整理のできない自分を褒めてやって、だから、ちょっとだけアレンジすればいいんじゃないかな。ちょっとだけアレンジすればいいんじゃないかなという気がしますね。
意志で片付ける、じゃなくて、なんていうのかな、あの……アレンジするというのは、例えば、大事か大事じゃないかが微妙なものを入れる箱、というのをひとつ下に置いて、そこにためていく。あとになって大事だったら取り出すと。それで、絶対に大事な箱も作って、絶対に大事なものを、箱に入れていく。
ただね、僕は思うんですけど今まで生きてきて、これ大事だな、これ大事だなって、思って、これ後でなんとかしようっていうものは、全部ね、忘れちゃいますね。
で、人生っていうのは、究極のところ、その日暮らしかもしれませんね。あとでというのはぜったいないです。大事なことだったらその日にやったらいいです。あとで返事を出そうと思ったメールは後で出してない。その場で出さないとだめです。あとで読み直しをしないから。読んだらすぐに返事を出す。
あのね。驚く人が一人、います。
昨日かおととい、遠方からはがきをもらいました。絵葉書です。僕とお母さん宛にね。どこかの空港から出されたもの。文面を読んだら、それはこないだ一緒に出張に行った、なおちゃんからの手紙でした。
ありがとうございましたって。こうこうこうでって感想が書いてあって。いつ出したの!? っていうね。帰りの飛行機に乗る前に、飛行場のポストに入れたみたいね。また帰ってきたら彼女は忙しくて、会えなくなるわけですけど。それを、空港でパパパパって書いて、パって入れたんだね。素晴らしいなと思う、そういうところが先生にも気に入られたりするんだと思う。その気遣い。そのスピード感。
だけど、あとでゆっくり大事に長文で書こうと思ったら多分出せなくなっちゃう、他の仕事で忙しいから。
もう、その日、その日、出たとこ勝負で、一瞬一瞬を大事にして、一瞬一瞬ベストのパフォーマンスをして生きていく。後でというのはない。これも、大事な質問だけど、質問さんありがとう、一期一会。お墓まで持っていきたいけどさようなら、そのくらいの気持ちの割り切りが必要なんでしょうね。それが持てないから散らかるんですね。みんなもそのあたり自分の情緒と片付け、せめぎあいを大事にして、片付け上手で情緒のない人になるよりか、情緒を絶対に捨てないで、情緒たっぷりでありつつ、比較的片付け上手な人になってほしい、そういうふうに思います。
(2019年6月28日掲載)
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