私がいたクラスはとっても仲の良いクラスと思っていました。
最近、自分は小学生のとき(4年~6年)、いじめられていたんだ、と気づきました。
毎日、ふでばこをゴミ箱に入れられたり、男子トイレに入れられたり、キャッチボールのボールにされました。
首を絞められたり、すねをけられました。
でも私はヘラヘラ笑っていました。
暴力を振るわれて喜んでいました。
暴力を受けても喜んでいたのは、「男の子は好きな女の子をいじめたくなる」という言葉を信じていたからでしょうか。
家で自分のことを見てもらえなくて、たとえいじめでも、見てもらっている、と嬉しくなってしまったのでしょうか。
今も、そのとき、苦しかったと思うことができません。
【お父さんの答え】
あのね、これはね、いじめられていました、ということです。
それで、ヘラヘラ笑っていたのは喜んでいたんじゃないんですね。いじめられている、やめてということを仮にその人達に言っても、逆にもっと面白がってやられてしまう。仮に先生に言ってもおそらく先生は止めに来てくれない。逆に先生に言ったらもっとやられるかもしれない。親に言っても親も動いてくれないだろうということで、どっちみち言ってもどうにもならないと思ったら、それを受け流す、ヘラヘラ笑って受け流すことしかできなかったというのが正しい解釈だと思います。
今もそのとき苦しかったと思うことができませんというのは、これはなかなか段階があってできないんですね。これは自分はいじめられているのに誰にも助けてもらえなくて苦しい、悲しい、残念だと思うと生きられないくらい悲しくなってしまう。認めると本当に惨めで無様で、自分のプライドがベキベキにへし折られるような無念感で一杯になっちゃうんですね。自分のプライドを守るためには、あれはふざけてたんだ、みたいな自分で自分を騙すことしかできない。本当に自分のプライドを強く持てて、自分が守ってもらえると信じられる人がいたり、自分の中に正義ができてきたりしたら少しずつ少しずつ、あれはひどかったなと言えるようになるんですね。
だから現在進行形でいじめられている人は、「僕はいじめられている」「私はいじめられている」と自分から言うのはかなり難しいんですね。止めてもらえないので。だから自殺したり、本当に大きな事件、事故になるまで止まらなくなっちゃうんですよね。
で、個人ベースでもこんなふうに、そうやって自分のプライドを守ってる。そういうことだというふうに思いますね。
人って誰でもそうですけどね、誰でもそうですけど、プライドがあるんですよ。
この人、鈍くさいなとか、何かやってもうまくできなかったり間違えてばっかりで「へへへ」なんて言ってる人でもプライドがあるんですよね。そのプライドをお互い大事にするということが、ものすごく人と人との関係で良い関係を作っていく上では大事だと思うんですよね。
自分のプライドも大事にすれば、人のプライドも大事にする。
だから、ものすごく何かができて、注目されて、どこにでも行って表に立ってやれるような人は、まあまあ結構その人は自分でプライドを守ることができる。
だけどちょっと体力がない、気力がない、あるいはうまく器用にできないという人は、なかなかプライドを持つのがむずしい。
それで、「私できないんです、へへへ」と笑って私プライド持ってないですという振りをすることがあるけど、僕はそういう人のプライドこそ大事にしてやらなきゃいけないんじゃないかと思う。すべての人のプライドが守られるとき、必ず自分のプライドも守られる。
自分のプライドを守る、そのためには人のプライドも守る。お互いに大事にする。
そういう心がけがものすごく大事だと思うんです。
モラルが低くなると、人のプライドをへし折れば、自分が上に上がれるといった雰囲気が出てくるので、みんなが人の足を引っ張るようになる。まさにこの質問の人がいたクラスの中はそんな感じですよ。
だから、本当にひどい、モラルの低いクラスだったんだなと思います。
やっぱりそういう意味で、あるべき人と人との関係というのは、プライドをお互いに守り合える関係です。
もし自分が守りきれなかったら誰かが守ってくれる、自分のプライドをね。そういう関係というのが一番いい関係なんじゃないか。そういう関係を現在では取りにくくなってきている。中学でも高校でも、表立っていじめというのは無かったとしても、そういう意味で本当にお互いのプライドを大事にするという関係は、高校では本当に希薄になっているんじゃないか、そんな感じがしてしょうがないです。
(2020年1月10日掲載)
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