年齢、役割に見合った振る舞いについて
私は、ごく一部の人に対して、必要以上に畏れの気持ちを持ってしまいます。
その人と廊下ですれ違うだけで、ものすごく緊張して心の中で厳戒態勢をとってしまったり、話す時も、おどおどしたような態度になってしまいます。
年齢が上で、尊敬できるところもたくさんあって、みんなからも信頼されているような人なのに、怖いと思ってしまう時があります。
また、それに近い感情で、スタッフさんと話す時も緊張してしまって、職員室に用事があっても、なかなかノックすることができないこともあります。
なのはなは家族だけど、社会であって、横の関係だけれど、先輩であって、敬うべき人であって、自分の年齢、役割に見合った振る舞いがわからなくなってしまいます。
いつも、自分の態度は偉そうでないか、出過ぎていないか、自分の存在がうるさいのではないかという疑問が消えません。
畑では、野菜にとっていい環境を作るために、リーダーシップを取っていくことが求められているので、比較的に意志を持って行動しやすいです。
しかし、それ以外では、出る杭になって打たれたくないというような、後ろ向きの気持ちが付き纏ってしまいます。
それは間違っていると思うのに、いつも怖さが先行します。
自分はいつ捨てられてもいい、何も失って惜しいものはない、くらいの覚悟を持って、やっと明るく前向きに演じられます。
こんなふうな気持ちがあるのは、間違っていますか。
教えていただけると嬉しいです。
【お父さんの答え】
人に対して畏れの気持ちを持つ、ということはある種、正しい心持ちなんですよね。
人を畏れる気持ちは、すごく正しいことだと思います。近頃の人はあまりこういう気持ちを持たないですよね。
少し前に思ったのですが、テレビタレントというか、お笑い芸人のような、テレビで有名になる人は、時としてただの恥知らずで図々しいだけ、と思ってしまうことがあります。いい意味では、全国に放送されるような場でも、緊張することもなく堂々としていていいのですが、悪い意味では、太々しい人ほどテレビタレントになれて、そういう無神経な人がもてはやされているとも思えます。
まだ幼い中学生くらいの歳の子でも、太々しい人がすごく増えている気がして、なんか世も末だなと思うようなことがあります。
やっぱり、年上の人を敬う、畏れる気持ち、それは本当に必要だなという感じがします。あるいは、年上じゃなくても、人を畏れる気持ちというのは、なんていうんだろう、他の人と、コミュニケーションをとる時、人と向き合う時の、基本的な態度だと思います。
怖い気持ちになってしまう、というのを少し分析すると、実は役に立ちたいとか、自分を好きでいてもらいたいとか、いい働きをしたいだとか、そういう強い願いの裏返しなんですね。
だから、もし役に立ちたいなどと思ってない人だったら、何を思われたって良いので、あまり怖い気持ちになることもないわけです。
同様にスタッフのことも好きでもないし、お父さんお母さんのこともどうでもいいと思ってたら、まあ太々しい態度も取れるし、怖くもなんともないですよね。
でも、ここで役に立ちたいと強く思っていたならば、意に反して嫌われたらいやだな、捨てられたら怖いな、という気持ちが当然ながら出ると思いますよね。プラスに思ってもらいたい、という気持ちを強くもつことは、これもある意味、すごくいいことですよね。
若いときの頃を思い返すと、僕も、好きな人ができたとしても、自分は好かれるだろうとは、やっぱり思わないんですよね。
――そうそう、本当に好きな気持ちというのは……、本当に極端に好きになると、その人に近づきたいとは思わなくなるんですよ。
なんでかというと、その人の人生を邪魔したくないからです。自分が出ていくことで、その人の人生が曲がったりしたら嫌だ、と思う訳です。自分が関わりを持つことで、その人の本来の人生と違ってしまったらそれは畏れ多い事だから、関わりたくない。そんな気持ちになるのが普通だと思います。
それで普通に好きになったとすると、自分のことは好きになってもらわなくていいから、近くにいて何か役に立つことがあれば役に立ちたいという、そういう願いを持つようになっていました。
もっとわかりやすくいうと、自分が好きな人の近くにいる時に、何か天変地異の事態が起きたとして、自分がその人を助ける場面が出てきたら活躍できるんだけどな、という思いがあったりしました。できれば、その人の命を助けるくらいの活躍をしてその人を助けたい、というのが好きな人に対する気持ちだよね。それくらい役に立ちたい。極端なことをいうと、自分が死んでも役に立ちたい。その気持ちは僕にとっては自然なもので、逆に、人を好きになったことのない人は、そういう怖さがないと思います。
人を好きになるから、役に立ちたいという強い願いを持つようになるし、捨てられたらどうしようという怖さが出てくる。だから、そういう、自分が好きになる気持ちと、自分が嫌われたり、ダメ人間という烙印を押された時の怖さとは、紙の裏と表なんですよね。
ただね、こういう気持ちを持っている人が、嫌われることはないです。まずないです。
というのは、いま言ってるように、本当に心の底から役に立ちたいとか、いい人間と評価されたいという願いがそれだけ強いんですから、それはいいことをやろうとしているわけです。気持ちを外向きに出してるわけですね。そういう人は、嫌われるわけがないと僕は思いますね。嫌われるはずがないんですね。
あの、それとね、僕は今まで、生きてきてね、色んな人に助けてもらいました。だけど、せっかく僕のことを好きで応援してくれている人に対して、僕は間違ったことを言ったりやったりして、その人に対して大きなダメージを与えたなと思うこともあるんですね。でも、その人は僕のことを嫌わなかったです。なんでなの? と思うくらい、懐の深い人が何人もいました。何回か、というか何回も実はありましたね。
僕のことを認めてくれた人は、僕が間違ったことをやっても、簡単には、嫌いにならないですよ。逆にそんなことがあっても引き立ててくれる。盛り立ててくれる。本当に申し訳ないなとか、有り難いな、と思う事が何度もありました。
僕は、立派な人物というのは、そういうふうに懐が深いものだと思います。というか、もう知ってるわけですよ、僕がどんな人間か。知った上で許してくれる。
だから若気の至りで間違いをやっても、まあ若気の至りでそういうこともあるだろう、と許してもらえる。それより一番見てもらえるのが、こちらの姿勢なんだよね。こちらの方向性です。こうなりたい、と強く願って動いている、こちらの方向を評価してくれているので、どんな未熟な時でも――今でも僕は未熟だけど――評価してくれる人が若干いるのは、僕が何者かになりたいという、なんか、ちゃんとした人間になりたいとか、ちゃんとしたことをやりたいという願いを強く持って生きてるのをわかってくれてるから、助けてくれる、応援してくれるんじゃないかなというふうに思うんだよね。
どうなんだろう……。そういう願いを持った人が、そういう人が、みんな生きてる人間なんだというふうに考えたらいいんですよ。
つまり、僕は、サイコロでコマを進める人生ゲームの上りに来ていて、なのはなファミリーでみんなを評価するだけの人、っていうことじゃないんですよ。
僕も、今も誰かから評価される人なんですよ。で、僕もまだ何者かになりたい。みんなも何者かになりたい人。同じ時代に生きている仲間なんですよ。助け合う仲間です。
みんな未熟者同士ですね。年齢には先輩、後輩あるけど未熟者に先輩も後輩もないんです、同じ未熟者なんですよ、僕もみんなもね。その差は、実は何もないんです。
だから、そういう意味で、嫌われたりとか、なんかっていうのは基本的にないんじゃないかという気がします、僕はね。
だから、もし僕が誰かのことを「この人ダメだな」と嫌ったりしたら、自分が誰かから、こいつダメだなと嫌われることと同じだと思っています。未熟さの加減でいえば、50歩100歩ですから。
自分が未熟さゆえに阻害されたくなかったら――未熟さを許してもらいたいと思うよね――人が仮に未熟な失敗をしたとしても、それは許さなきゃいけないよね。誰であっても。
ただ、そういう願いを持つ。自分が役に立ちたいとか、自分が嫌われたくないみたいな、そういう気持ちを強く持つというのは、それくらい強く持つというのは、僕は、特に若いうちは大事なこと、大切なことなんじゃないかなというふうに思います。
プラスマイナスゼロなんですよ。人の役に立ちたいと強く思う人は、失敗したら怖いという思いも深くある。プラスの方向に高い人は、マイナスの方向にも深い気持ちが出てくる。
役に立ちたいという気持ちがちょっとくらいの人は、役に立たなかったらどうしよう、という気持ちもちょっとだけなんですよ。
だから、役に立たないけど目立ちもしない、失敗もないけど役にも立たないという人生と、うんと役に立つけど、失敗したときもでかいというのと、どっちがいい人生になるのか。どっちの人生を歩きたいのか、ということです。
ハウスミーティングでも質問がほとんどない人というのは、役に立たない、失敗もしない人かもしれません。全部をスルーしてしまうので、なんの疑問もない。解決したいこともないけど別に悩みもない、ということになっちゃうんですよね。
そういう人生はどうなのかなと僕は思いますよね。
浅い人生ですよね。
もっと深く生きて、高いところは高く、深いところは深く、となってしまっても、それは仕方がない。そういう意味で、色濃く生きていこうということですから、あまり怖がることはないんじゃないかなと思います。
なんていうかな、いつでも人生には怖さはつきものなんじゃないかなという気はしますよね。
流れ去っていく時間は、固定できない、確定できない。人は時間の中を生きているので、人の評価もすごく流動的なものなんですよ。
思いも、物も、全部そうです。だから、流れて行ってしまうことに対しての諦めというか、寂しさというか、そういう感覚は、究極のところつきまとうものだと思います。
きちんとしようと思えば思うほど、時間の流れのなかで生きていることなので、きちんとしたことを固定できない。究極のところ、流れて行ってしまうんだからどうでもいいよ、という諦めのような気持ちがつきまとうと思います。
ただ、いつか死んでしまうのだから、一つ、一つ、小さなことも大事にしながら生きていきたいと思います。だから大事に生きていくには、どう、やったらいいかというと、やっぱり思いをこめながら生きていく。
1つひとつ、何かに向かうとき、こうしたいという強い願いを、想いを込めながら生きていく。
大きな喜びだけをターゲットにして、ずっと我慢して大きな良い報せが来るまで待つという人生じゃなくて、日々、強い思いを込めながら生きていき、そこから得られる小さな喜びを噛み締めながら、それを重く受け止めて生きていく。
その思いの強さが、少しずつ、怖さを減らしていってくれるのではないでしょうか。
(2021年3月22日 掲載)
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