私は『グレイテスト・ショー』を踊っていたり、普段の作業をしている中でも、みんなと本当に心と心が通じてるんだなとか、自分の言葉がちゃんと届いて、相手からも私に届けるように喋ってくれているなという瞬間に出会うと、もう胸がいっぱいになりすぎて泣きそうになります。
そういうことが日々の中にたくさんあって、何回かお父さんに、これはおかしいですかっていう質問させてもらったんですけど、それはおかしくないことだと毎回言ってくださるので、それは普通なんだなとは思っています。それでも、嬉しいとか、なんて優しいんだろうって思って、涙が出そうになる瞬間があまりにもたくさんあると思っています。
それは自分が薄っぺらすぎるからかなという疑問が、最近、自分の中に出てきました。
自分の感じる幅とか、気持ちの受け止めどころが足りなさすぎて、すぐ涙が出てきちゃうんじゃないかなって思ったんですけど、お父さんはどう思いますか。
【お父さんの答え】
その考えは当たってるところがある、と思います。
その理由は、普段から自分がどこを目標に生きているか、という目標が低く設定されているからではないかな、と思います。
目標を高く設定していると、ちょっと嬉しいことがあっても、これくらいのことではまだまだ喜んでいられない、という気持ちになります。
同様に、優しい言葉をかけられても、もっともっと目指すところは高いと思うと、ちょっとのことで感動して止まってはいられない、となります。
辛いこともそうで、目標のためにこれくらいの辛さは軽く越えていかなければ、と感じることができます。
そういうふうに高く目標を設定するということは、より自分に厳しくなるということです。喜びとかプラスの感情にしても、感動するレベルを高くしているので、あまり日常的に心を動かさないようになります。
僕がジャーナリストの駆け出しとして仕事を始めたのは、講談社の総合月刊誌でした。ほぼ経験がない中で始めたので、他の若手の物書きから、よくそんなところからスタートできたねと驚かれたことが多かったけど、ジャーナリストとしての経験はなかったけれども、ミドルティーンの時から物書きになるという高い目標を持っていたので、十年以上もそこに気持ちの焦点を当てていたことになります。
すると、確かに総合月刊誌のレベルは高かったけれども、無意識にその高さで気持ちを作り、勉強をしていたので、いきなり仕事が始まったときも、すぐにそのペースに乗れたということだと思います。
どこに標準を置いて、喜怒哀楽の感情の振れ幅を考えるかということは、それは即ち、どういう人生観を持っているか、ということと同じだと思います。
自分が考える「優しさ」というのはこうあるべきだ、自分が考える「厳しさ」というのはこのくらいのものだ、という自分の理想的なありようを高いレベルでしっかり持っていると、ちょっとくらいのことでは感動したり、深く共感しすぎないのではないか、ということです。
その目標を低くしていると、ちょっとしたことで全部、凄い、全部、感動、となってしまい、本物の感動を見る目が曇ってしまいます。
考えてみれば、いろいろな分野でこうあるべき、というのを僕は持っていますが、まるで持っていない人もいるなと思います。
よくありがちな例として挙げると、小さな子を見てすぐに「可愛い!」という人がいます。それは、その人の心の中でとても単純に、「小さな子」イコール「可愛い」という図式が入っているので、小さな子を見ると無条件に「可愛い!」という言葉が出ます。
僕はそういうふうに、何かを見て無条件に定型文のような表現をすることはしません。
定型文の表現をする人は、定型で感動するパターンが入っているのではないか、とも思います。そこに何かを考えたり、評価したりする余地はありません。考えずに、反射で、感情が出てくるだけです。感じることもしていないかもしれません。
そうなってしまうと、本質を見る力が弱くなったり、自分が高いレベルで喜怒哀楽を感じる心を持つことができなくなってしまうのではないか、と思います。
ただ、摂食障害で永い期間、苦しんできて、その苦しさから解放された今、周囲のすべてのことに感謝の気持ちや、得難い有り難さを感じたりしてしまう、ということはあるだろうと思います。
健康で、過食などの衝動に患わされることもなく、日常的な活動をスムーズにできることのありがたさや、それに加えて周囲から暖かい気持ちで支えてもらっていることに今さらながら気付いて、一つひとつに感謝する気持ちで感動が続くということなのだろうと思います。それは決して否定されるべきものではないので、もうしばらくの間は、症状から解き放された喜びに浸ってもらいたいという気持ちです。
(2023年6月24日 掲載)
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