質問
先日、お父さんが、
「一生懸命生きている人、目一杯生きている人は、心が寛容になって人を許せるようになる」
また、
「気持ちができてくれば許容範囲も広がる」
という話をしてくださいました。
今、リビング美化計画を実行委員の方がしてくれて、
「リビングの床に荷物を置かないようにしましょう。自分のロッカーに入らない物は山小屋に持ち帰りましょう」
と呼びかけてくれて、リビングがとてもきれいになってうれしいのですが、一方で、荷物を置きっぱなしにしている人がいて、それが気になってしまいます。みんなでリビングを気持ち良く使うために荷物を置かないようにしようとしているのに、どうしてしないのだろうか? と思ってしまいます。
このように思うのは、心が寛容でなく、許容範囲が狭いから気になってしまうのでしょうか?
または、「決められた事はしっかりと守らないといけない」という事を親に強要されたのと同じことを、人にも強要する気持ちがあるから、できていない人が気になってしまうのでしょうか?
一生懸命、目一杯に生きられるようになったら、気持ちができてきたら、そのような事は気にならなくなるでしょうか?
教えて頂けるとうれしいです。
答え
この人は、鋭いと思います。
この人の思っている通りです。
人が荷物を置いて、みんな片付けているのに嫌だな、と思ってしまう事はあるでしょう。でも、それがすごく気になる、許せないというのは、やっぱり「決められた事は守らないといけない」という事を人にも強要する気持ちがある、その通りなんですね。
自分では、そんなふうに言われて、すごく苦しかったので、反発心というか、人に強要したい気持ちがあるんですね。こいつはできていない、と―― 。
人に叱られまくった人は、本当に自信がなかったり、人に怒りをぶつけるようになります。
人に褒められまくった人は、あんまり腹を立てたりしないと思います。
あとはやっぱり、自分が一生懸命生きていると、本当に、何か物を置かれても、その人の事情があってやっているんだろうと、割と許せちゃうんです。
自分がどれだけ一生懸命やっても届かない事がある、と分かってくるんですよね。
もの凄く努力すると、色んな事ができるようになります。
中途半端に努力した人は、やらないやつが悪いと思ったりします。
限界まで努力した人は、人間のできる事、限界まで行くと、その先には何があるかというと、神様の領分があり、そこを垣間見るような境地に達するのです。
神の領域に近いところまで行くと、人間の力には限界があって、神様から力を借りなければいけないと思うようになります。自分がなにがしかの神様の力を借りていると思ったら、100%人間の意志だけで生きているものではないな、なにがしか神様の思し召しがあってそういう事になっているのだ、そういう気持ちになるのです。
中途半端な人は、神頼みなんかするものか、神様なんてくそくらえ、と思っています。
目一杯やった人は、「これは自分の力じゃないです」と言えるようになりますね。
余裕ができてきたら、そっとその人のぶんも片付けられるんだよね。
そうだね、その人に嫌みにならない程度に、ね。
そっと知らないうちにね、ありがとうって言わさないように。
それができるようになるって言うのは素敵な事だよね。
まだ、目標にしているけれど、できないよ。
そうなれたら素敵だろうなって思うわ。
まだお母さんが、お父さんの机を片付けるの、ぶいぶい文句言っているもんね。
今ネットワークの時代で、株式も0.何コンマ秒で決済される時代。
すぐに決済をする、そのスピードで何十銭を稼ぐ、何億円をかければ、何十銭でも結構な金額になっちゃうんですが、そういうパソコンを使った取引を専門にして株とかを売買するネット証券会社があります。
こういう会社はコンピューター投資がすごいです。コンピューターを空調きかせた部屋にダーって並べている。
そのコンピュータ群の中心になっている、全部を統括しているサーバーが、キャビネットに入れられていて、そこに、なんとか八幡大社っていう札があった。取材で行ったとき、広報の人にそれは写真撮らないでくださいって言われました。
証券会社が神頼みしているんです。
最新の証券会社のコンピュータールームに、どこかの神社からもらってきたお札が奉ってあるのです。
システムエンジニアが何人も頭をより集めて、ばっちりシステムを組んでいても、本当にバグがないのに、なぜかシステムエラーを起こすときがあるんです。
だから、止まらないようにお札を置いているんです、とその会社の人が言うのです。神頼みなんですよね。
コンピューターでも神頼みをする。
この写真を出したらうちのコンピュータシステムの信用がなくなりますからって、写真は撮れなかった。でも、コンピュータが止まらないように神頼みしているのは事実なんです。そういうものだと思います。
限界までやって、本当に止まらないでほしいっていうときは、やっぱり神様に頼むんですよ、コンピューター会社の人も、ネット証券の人も。
それは、情けないとかいう話ではなくて、難しさではトップクラスのシステムを組んでいる人も、理屈だけでなく、神様の存在も大事にしたくなるようなそんな繊細な心で仕事をしているということなのです。
頑張って、頑張って、理屈で理屈で、パーフェクトの理屈でシステムを組む、その後は、神様お願いします、と思うんだよね、本当に努力した人はね。
中途半端な人は、俺様の実力だ、とそう思う。
そうじゃない。
1人ひとり、他の人が力を出すと、他の人が、神様にも等しく思える事がありますよ。
50人いて、何かやって、ものを動かそうとするとき、50人がよいしょってやっても、全然動かないのに、あと3人来たら動く。すると、その3人が神様のように思えるでしょう。
1人ひとりが一生懸命やっていたら、隣の人も神様のように思える事があります。
その辺のおばあさん、それこそ、畑と自分の家を行ったり来たりしているだけのおばあさんがいるとして、そんな存在があったとしても、自分の人生にとってはその他大勢の一人みたいなふうに、若いうちは思うんですよ。
ところが、僕とかお母さんくらいの年になってくると、そういう人にちょっと助けられた事で、すべてが変わっちゃうくらい、なんでもない人の怖さっていうか、力の大きさは、何度も経験してきています。
今までに、何度も、ね。
だから、そういう、その他大勢みたいな、世間の狭そうなおばさんこそ、いつ、自分の神様になるかもしれないと思ったら、本当に粗末にできない。
既に自分の助けになっているかもしれない、そういう事が本当にあるんです。
色んな事で色んな人に、思いがけなくお世話になって生きてきていると、そっちこっちの人に向かって、手を合わせたくなる。
そういうものだと思いますよ。
まあ、それでも、若いうちは、そんなことをやっていたら、とてもじゃないね。若いときから、そんな老練さばかり身に付けてもつまらないかもね。
若いうちは、自分の力を伸ばす為に、自分だけを信じて頑張ろうってやってもいい。そしてその時に、本当に自分が力をつけないとダメだね。
そうでないと、人の有り難さをわかる人にはなれないかもしれない。
ただ、どんなときも自分の力だけではないよ、と頭の隅に置いておく事が大事だと思います。
そういう気持ちで、もう一度、散らかしている人の存在を思ってごらん。
そういう人に、いつか助けられる時が来るかもしれないよ。そう思えば、心の許容範囲は自然と広がっていくよ。
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