質問
私は、心が優しくおだやかでいられるときと、何も考えずに無意識で過ごしていてあるときハッとしたとき、周りの人の見え方、感じ方が違うと感じます。
お父さんお母さんは、心の状態やコンディションなどによって、見える景色や人の感じ方は変わりますか?
これは、まだ苦しい中にいるから、違ってしまうものなのでしょうか?
答え
そうだね、というか苦しい中にいるときは誰でも、たびたび見え方、感じ方は変わります。
自分の記憶でさえも、変わってしまうものです。
過去1か月間の記憶でも、同じ記憶が苦しかったこと一色のつらい記憶になったり、楽しかったといううれしいことだらけの記憶になったり。たびたび変わってしまうということがあります。ましてや、見える景色とか人の感じ方は、全然、違ってきます。
だから被害感情の強い人は、その考えが亢進してくると、なにもかも、自分の事が嫌いでそうやったんじゃないかとか、自分に結びつけて、あらゆる人が自分のことを嫌ってるという前提で全部の人に敵意を感じてしまうし、それが薄くなってくると、割と何でもなくいられるようにもなります。
で、なんていうのかな。景色やなんかもね、自分のコンディションによって全然、違った景色に見えるのは、当然だと思います。
志賀直哉が書いている小説に、生きる事と死ぬことにあまり違いを感じないという目で物事を見るスタンスで書かれているものがある。ノーベル賞作家ですよね。たとえば、明日、自分が死ぬとしたら目の前の景色がどう見えるだろうか、っていう書き方なんですよね。
僕が、明日死ぬとしたら、こうして今日、みんなの前で喋ってるのが最後な訳です。
今日で最後、そう思ったら、この、今というときを大事にしたいし、一人ひとりが大事に見えてくる。ああ、この子達と過ごして、僕は明日死ぬんだなと思ったら、かけがえのない子たちに思えてくる。
愛おしくなるでしょ。汚い字で書かれた質問でも、あ、これはきれいな字だけど、汚い字があったとしても。これが最後の質問かなあ、とか思ったら粗末にできないよね。
富士山じゃなくても、那岐山でも。ファーマーズの山でさえが、何度も通らせてもらったなって愛おしく思えてくる。すごく大事に見えるでしょ。
そういう、明日死ぬとしたらという前提の愛おしさ。大事さ。
みんなさようなら、ちゃんと記憶にとどめて、あの世に行きますって、すごく大事に思えてくるでしょ。そういう、感じ方、見え方は、普段から、持とうと思えば持てるんですよ。
僕もね、そういう意味じゃ、あっと言う間にこの歳になってるんです。
ひと夏で、子どもを連れて、多いとき7回キャンプに行ったことがあります。
ちょっとでも時間ができたら一泊でも行く。例えば、昼くらいに仕事が終わって、明日も午後から取材だけど、1時か2時に帰ってくれば間に合うと思ったら、行っちゃう。一泊しちゃう。
こんなつもりでキャンプに行ったら、一生のうちに数えきれないほど何回でも行けるなって、一瞬思った。
残念でした。そうじゃない。
あっと言う間に、子どもって大きくなって、そしたら卓球の大会だとか、なんとかで、日曜日がだいたいそういうのでつぶれる。誰ちゃんが行けない。こっちも行けないとなって、家族でキャンプに行けるってほんとに小さいときだけだったんです。
自分も年齢が高くなってくると、今度の日曜は講演会を頼まれてて、だめとか。お互いに、スケジュールが合わなくなる。
子どもが小さいときは、自分も若かった。仕事も何かと都合をつけて、行けたけど、責任が重くなってくると都合もつきにくくなってきた。
1回のキャンプね。ほんとうに、何をするでもないけど、愛おしいなってほんとに。僕ももうすぐ20年くらいしたら死ぬんです。もうすぐでもないか。まだ、みんなとキャンプ行けるんですけどね。
割と、いつも粗末にしがちなんです。何回でもできると思うと、今、今回、この機会っていうのを粗末にしがちなんです。
でも、機会って、そんなに何回もないです。人生は、長いようで、すごく短いです。まあ、短いようで長いっていうのもあるんですけど、 短いから、一回一回を、これを大事にって。
なにか、感情的に誰かと衝突したとしても、あ、この人と衝突するのもこれで最後かもしれないって、そしたら相手を大事にしたくなるんじゃないでしょうか。
いい事も悪い事も含めて、なんとなく、そういう、一回一回心の状態を大事にしたい、そう思うと一つひとつ大事にしていけるんじゃないでしょうか。
ところが、摂食障害でつらくなってると、どうでもよくなってくる。みんな死んじまえ、私も死んでしまえ、どうにでもなれって、見え方感じ方も雑になってきてしまう。
そうならないように、つらさをなくしましょう。癒されてから、いい人生を歩きましょう。
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