時々、お父さんに、「地のままで生きちゃってるよ」と教えてもらうことがあって、確かにその通りだなと思います。それでも一時的に見せる自分を「演じる」ということはできますが、ずっと同じ人と長くいたり、気心が知れてきて、関係が近くなると地になってしまいます。例えばハンバーガーショップとかの接客をしたら、思いっきり店員を演じるのがさっとできるんですけど、家族っぽい関係だと自分が崩れていって、演じられなくなってしまうのは自分が依存体質だからでしょうか。
【お父さんの答え】
自分の地を出して生きてるというのは、周りの人にとっても、自分にとってもあまりいいことはありません。
言ってみれば、自分の感情がむき出しになってまる見えなので、服を着ないで下着で歩いているようなものです。
そういう人を見るのは、見ているほうが恥ずかしいし、本人も生傷を受けやすく、ヒリヒリしながら生きていくことになります。たまには怒りを爆発させてしまったりします。
服を着るとひと口に言っても、畑作業に行って今日は泥まみれになるなと思えば汚れてもいい服を着ていきます。今日はシャレたレストランで知人と食事をしようというときは、小洒落た服装をしていきます。
その時々のTPOに合わせて服を換えるとしたら、それと同じように気持ちも換えることが必要です。質問者は、ハンバーガーショップの店員ならすぐできる、と言いました。そういうふうにハッキリと役割がわかっているときの気持ちは作れるということです。
ところが、いつも会っている親しい人の前では、気持ちが作れないという。
それはどこかで、「親しい人とは、自分の心をすべて見せ合って、お互いにいい関係を作っていくべきだ」という思い込みがあるのではないでしょうか。
それで、ついつい自分の心、つまり裸の服を着ていない素の感情をそのまま見せてしまう。自分としては、それが当たり前のこととしてやっているので、意識していません。
ところが、必ずしも相手はオープンになっていないので、自分だけが裸にされたような気持ちになって怒りが湧く、ということを繰り返しているように見えます。
どんな親しい人たちだったとしても、やはり見せる自分を意識する必要があります。
ハンバーガーショップの店員になったら、それを演じることは簡単にできると質問者は言いました。それは本当のことだと思います。それができるのは、お客様が自分を一人の店員としか見ていないのは明らかで、自分のすべきことも明確になっているからです。
親しい人との関係になると、自分が相手からどう思われているかというセンサーを常に出しながら、自分の役回りをその都度、変更しなければなりません。
ですから、親しい人との人間関係で自分が躓かないようにしようと思ったら、店員になったときほどではなくても、相手の気持ちを汲むというのは程々にして、自分がこうしたいという意思表示を常に見せていくというスタンスでいきましょう。
私は、これこれをしたい人です、というのを演じていく。そうすると、店員を演じているときに、お客様からちょっと失礼な言葉をかけられたとしても流せるように、親しい人から思ったのと違う反応を返されても、ああそれは残念、くらいで受け流せるはずです。それが自分をさらけだしながら関係をとっていると、予想外の反応をされたとき、自分がこれだけ見せているのにどうしてなんだ、と怒るしかなくなってしまうわけです。
自分の地で生きていないで、常に演じながら生きていこう、というのはそういうわけです。質問者が必ずしも依存体質ということではないと思います。
(2023年9月12日 掲載)
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