最近、『老人と海』を読んだんですけど、私は理解力が浅くて、読んで感動したというよりも、これで終わってしまうのっていう感想を持ってしまいました。本当はどう感じるべきだったのかっていうのを、教えていただけたら嬉しいです。
【お父さんの答え】
ヘミングウェイの『老人と海』は、もしかしたら本を読み慣れてない人には難しいのかも知れないね。
もう何十年も前に読んだのでうろ覚えで言って申し訳ないけれども、主人公のおじいさんが小さな釣り船に乗って、大きいカジキマグロだったかを釣った。それも釣り上げることができないぐらい船よりも大きいもので、カジキマグロに引っ張られて延々と海に揺られながらそのカジキマグロと戦い続けるという話だね。
延々と、来る日も、来る日も、ただただマグロに引っ張られて船に揺られて、海しか見えない時間がずっと続いていく。頑張って抵抗して、ただただ波間を漂って、夜になり、朝になり、寝ることもできないまま昼になりっていうことが続いていく。
それを延々と海の上でやってる。その大変さを、文字を追いながらイメージして、追体験するんですよ。その老人と同じ苦労を、たっぷりを味わう。ただ、海の上で魚に引っ張られたまま何の進展もない、何の変化もない、波以外は何も見えない海の上で、ただ見えるのはマグロの背びれと海だけ。
延々と同じことの繰り返し、何の変化もない海の上の話しと付き合いながら、いつか自分が小舟で大きな魚と格闘しているような、そんな錯覚にとらわれていく。それを果てしなくずっと続けていくわけだね。ところが、最後にようやく魚を仕留めたと思ったら、船の上に乗せることもできない大きさで、仕方がないので船に結びつけて帰ることにする。
そうやって自分の港に向けて帰ろうと思ったら、今度はサメが襲ってきた。船の横に魚をくくりつけてあるものだから、サメは容赦なく襲ってきて噛み付く。くくりつけた魚はどんどん喰われていく。追い払おうにも、どうにも大鮫を追い払うことができない。こんどは鮫との闘いだ。どんどん、どんどん、食われつつ、終いには頭と尻尾と背骨だけしか残らなかった。もうそのまま帰るしかないよね。
ようやく港に帰りつく。誰もそんな壮大なドラマを闘ってきたとは思わない。ところがたった1人、顔見知りの少年だけは別だった。それを見て、少年が、おじちゃんすごいねって言う。結局、何日も海の上でのまず喰わず、不眠不休で闘って、何も得るものはなかったわけだよね。ものすごい苦労して、ものすごい大変な戦いをして、何も獲物は残らない。残ったのは大きな頭と骨と尻尾だけ。
でも、おじいちゃんは生きて帰ってきた。それを少年は喜んだ。誰も苦労をわかってくれないが、ただその少年だけが、おじさんすごいねすごいねって、もう何度も言ってれてね。その少年だけはわかってくれた。ただそれだけの小説だけどね。
ほら、何日も海の上を魚に引かれるまま彷徨ってね、サメにも襲われて、ようやく生きて帰ってきて、得るものはなかったけどさ、命は助かって……。また日常に戻ることができた。その老人に気持ちを沿わせて読み込んでいった読者は、帰って無事に帰ってきた安堵感をたっぷりと味わい、誰もわかってくれなかったけど、たった1人わかってくれる男の子がいた、というのにも救われる思いがする。
そういう小さな安堵感を得て、ほっとして読み終わる。ああ、大変だった。誰もわかってくれないような大変さだった。でも、みんなわかってくれなくてもいいじゃん、あの男の子1人がわかってくれたらそれでいいや。そんな気分を味わう、ということなんじゃないの。それがこの本の読書の楽しみかな。同じことを海で追体験しようと思ったら、死んじゃうよ。それを本の上で追体験できただけで幸せなんじゃないかな。
(2023年4月18日 掲載)
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