質問
毎日、お父さんのお話を聞かせていただけるのが楽しみです。
ただ私は、ニュースなどを教えてくださる時に“死んだ”“殺された”という話を聞くのが嫌だと感じます。いくら知らない人とはいえ聞くとぞくっとします。
そう感じてしまうのは、自分自身が苦しんできたからそういう話に反応してしまうのでしょうか?
教えていただけたら嬉しいです。
答え
そうだね、やっぱり心が苦しいときとか、自分が傷ついて、それが癒えていないときは、人の不幸を聞くと、自分の辛さと重ね合わせてしまうので、聞くのが苦しいんですね。
だから、「死ぬ」という言葉に敏感に反応してしまうと思います。
あと、死に対しての気持ちっていうのが、決まっていないのだと思います。死に対する覚悟が決まっていない、考え方が決まっていないということです。
そうすると、人の死に対して、過敏に反応して、嫌だなと感じてしまうと思います。
ちょっと難しいのですが、人が死ぬということは、生きていることとそれほど違わないというか、そういうふうに思うべきなんじゃないかと、この頃、僕は思います。
別の言い方をすれば、死ぬということをあんまり大げさに捉えない。
かといって、命を粗末にしていいということじゃないけれどね。
特にそう感じる場面は、小さな幼い子どもが心臓が悪くて、心肺同時移植をしないといけないといったとき。
その移植手術のできる外国へ行くのに、一億数千万円のお金がかかる、それをみんなで募金しているといった話を聴くことがあります。
そういうような話を聞くと、しらけてしまう気持ちになることがあります。
そういう小さい子どもの為に、一億数千万円も色んな人から協力してもらって集めても、仮に手術が成功したとしても,その子はまず大きくならないのです。
自分の心臓なら年齢と共に大きくなりますが、移植した心臓は大きくならずに子供の心臓のままです。
小さい子どもは、子どもの心臓をもらいます。成功してその子が成長すると、その心臓では間に合わなくなる。そこで、何年かしたら、12歳くらいの子の心臓をもらい、何年かしたら、20歳くらいの大人の心臓をもらう。
そんなふうに、成長に合わせて何度も心臓の移植手術をしていかなければなりません。
何回も、より大きな心臓の移植を受けなければならないということは、その度に1億数千万円かかり、その生存率は難しいものがあります。
僕の知る限り、幼い子が心肺同時移植をしたら、頑張って生きても、免疫抑制剤などの影響もあり、12歳くらいまでしか生きられないことが多いようです。
せっかくだから少しでも長生きさせたいと、1歳で移植手術、また5歳で移植手術、そして12歳まで命をもたせる。
果たして、それが幸せなのか、疑問でならないのです。
僕の考え方としては、死ぬべき時期には死に、生きるべきときには生きると、生死に対して淡白でありたいと思っています。
生きていることはそんなに楽ですか?
生きていることは辛くないですか?
一生懸命に、精一杯生きていたら、すごく大変な面がある。
いい死に方というのもあります。みんなに認められて、みんなにさようならと挨拶をして、天国に行って楽になってね、天国で待っててね、と送られる人もいる。
生きる苦しみから解放されて、よかったねと言ってもらえるわけです。
これは考えようによっては幸せなことではないでしょうか。
仏教では、生病老死、という四大苦があります。
生きる苦しみ、病気になる苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみ。
仏教でも。生きることを楽としていないんです。生きることを、4つの大きな苦しみのうちの1つに数えているのです。
死んでしまえば年を取りませんし、それ以上病気になる苦しみもないのです。
あと20年くらいしたら。僕も死にます。
お母さんも、あと30年くらいで死ぬでしょう。
みんなも、あと60年くらいしたら死ぬ。
人は誰でも、産まれてきたものは必ず、いずれ死ぬのです。
形あるものは必ず壊れる。
その壊れるのを悲しみすぎたりしたら、形あるものを作れないでしょう。
死ぬのを恐れていたら子どもは作れないし、死ぬのを恐れていたら、生きていけない。
そういうことで、人が頑張れるのは、やっぱり頑張れる範囲があるんです。
その後、生きていたら、神様が生きろって言うことだし、死んだら、神様が「死んで良いよ」っていうことなので、その神の思し召しに従いましょうという気持ちをどこか持っていると、少し死に対する考えをラクに持てるのではないでしょうか。
死ぬということは、神様が楽になりなさいと言った、と同じことと思ったらいい。
ただ、馬鹿なことはやらないでもらいたい。
昨日ね、19歳の大学生が、琵琶湖を流れる水路にかかる橋の欄干から落ちたのです。
橋の長さ12m、あんまり長くないですよね。
その橋の欄干とか、橋の下とかいったけれど、そこにぶら下がって、大学生が腕の力だけで橋を渡ろうとしていた。
何かテレビ番組にでも、出ようと思ってその練習だとかいっていました。友達に、携帯のムービーでその姿を撮っておけと言って、それで渡っていって、水に落ちた。
そんなに流れは急じゃないと思うけれど、沈んでしまって、その後3時間くらい経ってから、水没しているのを引き上げたら心肺停止状態で、蘇生の処置をしたけれど、死亡が確認されたということで死にました。
これは、馬鹿なことだと思うんです。
落ちたら泳いで這い上がったら良い、と本人は思ったんでしょうけれど、もしかしたら水は10度くらいだったかもしれません。10度くらいの水って、相当に冷たいです。冷たければ、泳げる人も泳げなくなります。冷たくて、身体が動かない、そこをムリに泳いじゃったりしたら、寒さが染みるのでなお身体が冷える。何かに掴まって浮いているなら良いですけれど。泳いだら、まず、助からない。
本人は泳げたと思うけれど、冷たさで心臓が縮こまって、泳ぎもしないうちに死んだと思います。ちょっと安易でした。花見で人が出ていましたから、人に喝采浴びたかったんでしょう。でも、失敗すると、命を落とすようなことになるわけで、そういう安易な生命の使い方はやってはいけないと思います。
死は受け入れるけれども、大事に大事に生きた中で、どうしてもやむなく死ぬときは仕方ないというスタンスです。
やっぱりリスクをいつも頭に入れておかないといけないと思います。
子ども育てるときも、いつも悲しい思いがあります。
もの凄く可愛いから、この子を失った時にどうなるんだろうという悲しみです。
絶対そういうことにならないでほしいと思います。
でも同時に、僕は思いました。
子どもに何かあっても、仕事を投げうつとか、子どもの為に生きるといったことはしない。自分は自分の為に生きるのだと、いつもそう思っていました。
子供は子供の人生であって、僕は僕の人生。だから子供のために自分の人生を曲げたら、子供は悲しむだろうと思います。
僕は我が子に、「お父さんのために人生を変えた」と言ってほしくないです。だから、僕は子供のために自分の人生を変えません。親のためにも変えません。自分の責任で、自分の人生を生きる。我が子にもそうあってほしいからです。
家族に何かよくないことが起きるのは辛いことです。だから、いま目の前にいる我が子に対して、一緒にいるうちはいつもベストを尽くしてやりたい、そういう気持ちでいつも接してきました、幸い大事に至るようなことはありませんでしたが、そういうスタンスが大事だと今でも思っています。
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