心の中に踏み込まれてしまう心配がとれないという質問がありましたが、私の母親も私に対して境界線がなく踏み込んでくる人でした。
ところが、いつのまにか自分も他の人の心に踏み込む人になってしまっています。
修正しないといけない、とは思います。でも、人格に境界線を自分できちっと引いて、人に踏み込まないようにしようとは思っているのですが、どうもカッとすると踏み込んでしまいます。
それはどんなふうに意識して、直していったらいいでしょうか。
【お父さんの答え】
質問者は、よく被害感情を強く持つことがありますよね。被害感情というと、誰かから嫌われているとか、意地悪をされているとか、それが事実でなくてもそういう被害を受けているという感情のことです。
一見、人から踏み込まれているようですが、被害感情を持ってしまう人は、周囲の人に無意識に踏み込んでいるんですね。
あの人は私のことを嫌っているに違いない、というのはその人の内側に踏み込んでいるからこそ断定できることです。踏み込んでいなければ、あの人がどう考えているか、本当のところはわからないというところで止まるはずなんです。それが、「私にはハッキリわかっています。あの人は私を嫌っています」と言い切れる被害感情の人は、明らかに人の心に踏み込んでいるということです。
親から心の中に踏み込まれるような叱られ方をした経験がある人は、その怖さがとても強いので、叱られる前に自分を守る対策を無意識にしてしまいます。常に人の気持ちを測るセンサーを働かせて、周囲の人から自分はどう思われているだろうか、と気にするようになるのです。
どう思われているのかよくわからない、というのでは対策ができないので、きっとこう思っているに違いないと踏み込んで、その判断が正しいと思い込んでしまいます。
そして、それはだいたい否定的な判断に傾きます。どうしてかというと、うっかりしていてあとで強く叱られたり、ひどいことを言われたりしたら、大きく傷つくので、そのダメージを避ける為に、事前に否定的な答えを用意しておいて心の準備をしたほうが安全だからです。
ところが、それが高ぶってくると、準備を通り越して、反撃に出てしまうことがあります。それが俗にいう「キレる」ということですが、反撃された人はそもそも攻撃していないので、なんでキレられたのかわからないということになってしまいます。
もしも、自分とほかの人との間に、境界線をきちんと引いておいたならば、その人が自分をどう思っているかは、わからないという結論になります。
境界線というのは、ちょうど国と国の間に目に見えない国境のラインが引かれているようなものです。人と人との間にも国境ならぬ人境みたいな境界線があると思うことが大事だと思います。
誰かが、自分に対して無視をしたように見える、というときに、うっかり境界線を越えると、あれは絶対に無視した、と結論づけてしまいます。しかし、境界線があると、無視したようには見えるけど、何か他の理由があるかもしれない。それは本人に確認するまでわからない。だけどそれも面倒だし、もし無視したとしても、たいした実害は出ないので、確認のようなことはせず、このまま流してしまおう、というのが常識的な境界線をきちんと持った人の心の働きです。
人に怒られない人生、というのがテーマになってしまうと、境界線を持っていてもいつも他の人の動向が気になってしまいます。
しかし、自分の役割を果たすための人生をテーマにすると、そのテーマを達成するためにすることが次々に出てくるので、他の人の動向は気にならなくなります。
要は、自分の目標をいつも意識して、その目標を達成することに気持ちを注いでいると、人の境界線を越えて踏み込むようなこともなくなると思います。被害を恐れる人生ではなく、喜びを見つける人生にしていきましょう。
(2023年7月25日 掲載)
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