ずっと疑問に思っていたことで、私は理解されたいという欲求、理解されることに対する拘りが、子供のころから強かったように思います。
今思うと、そのせいで余計に辛くなっていた部分が自分で多かったと思うのですが、自分でもわからず、そこを諦めることができませんでした。
どうして私は、理解されたいという欲求が強かったのでしょうか。
自分の答え:生まれ持った性質が大きかった。
【お父さんの答え】
理解されたい、ということは、愛されたい、というのと同じことですね。
いつも言っていますが、あらゆる愛情は「理解し、理解されること」に尽きます。
自分の本当の姿や、自分の気持ちを親に解ってもらえていない、見てもらえていないと思ったら、もっとちゃんと見てほしい、解ってほしい、と願うのは当然です。
生命力の強い人、頭がよく回る人、きちんと心が動く人というのは、やっぱりちゃんと自分の心に適うような生き方をしたいとか、ちゃんとありたい、正しくありたい、正しく動きたいと思うものなのです。生命力の強い人ほど、人一倍その気持ちが強いので、そういう人ほど親とぶつかってしまいます。
ところが、親は理解できないことがある。親だから子供のことはわかるはず、というふうに一般的に思われていますが、決してそうではないです。子供のほうが器が大きい場合には、親が子供を理解できない、という状況が生まれてしまいます。
すると、親自身、自分が解らないはずがない、子供が訳のわからないことを言っているだけだ、と自分の間違いに気付けないし、子供は子供でどうして解るはずのことを解ってくれないんだと子供も親に要求し続けてしまう、という不毛な戦いが続きます。
子供には損得勘定はないです。子供は利他心でいっぱいです。いつも、親を大事に思う気持ちがあります。
前にも話したかもしれませんが、僕の子供が幼稚園生くらいのとき、ある神社でお祭りがあって僕が所属していたサークルの人も参加していた。小野瀬さんは神社に上がってお菓子を投げる係りをやりなさい、と言われて社に上がった。
それで、知り合いの女性が僕の娘と一緒にみんなの最前列にいて、「お父さん、こっちこっち、こっちにお菓子を投げて」と言っていたようなんですね。僕はそれをみていたけど、やっぱり自分の子供にたくさんお菓子を投げるのはおかしい、公平にやらなければいけない、と思って、むしろ自分の子供のほうにはお菓子を投げなかった。
そのお菓子投げが終わって、下りて行ったら子供と一緒にいた女性が、
「あんた、馬鹿ね。あんたの娘がここにいるから、あれだけ私がこっちこっちと言ってるのに、全然、お菓子を投げてくれなかった。なんで?!」
と怒られた。そしたらそれを聞いた僕の娘が、
「おばさん、いいんです。うちのお父さんってそういう人だから私は大丈夫です」
と言った。
子供って利他心だから、お菓子が欲しいなんて実は思っていない。ところが、周りの大人は、なんで自分の子供にやらないの、と憤る。これだけギャップがあるんです。
大人は苦労してるから、自分は損したくないし、子供にも損させたくない、とこれまで生きてきたなかで、そういう考えに染まってしまう。
子供はまだ無邪気なうちは、競争心なんかないので、むしろ歳が小さいほど、周囲の人に対して優しく生きたいと思ってる。自分は損しても周りの子に幸せを感じてもらったらそれでいい、という感覚を普通にもっている。
そういうあたりで、親とぶつかることは多いでしょうね。どうしてもそうなる。
親が、世間で打ち勝ってきた、競争に打ち勝ったという誇りをもってると、なおさらです。そういう親に対して、平らかなこといったら、親の誇りをつぶすようなことになってしまう。だから、ますますぶつかります。
自分のことを分かって欲しい、本当のことを知りたいというのは、生命力の強い子、意思の強い子供ほど、そうなります。
僕もそうだったし、なのはなのお母さんもそういう部分があったと思う。そうなると、思春期に入ると親と折り合いがとれなくなる。どこかで衝突する。
それで、答えを求め続けるようになる。だけど、なのはなのみんなはもっと早く症状と共にそういう「解ってほしい」という衝動やって来るから、もっと激しくぶつかるし、もっと彷徨ってしまうことになるのだと思います。
一般的には、多くの人が中学、高校くらいで親の価値観から離れようとして、新しい価値観を求めて彷徨い始めます。
『いちご白書をもう一度』という歌に、「就職が決まって髪を切って来た時」という歌詞がありますが、言い訳できるくらいの軟弱な人は、就職するくらいのころに「解って」という気持ちを引っ込めちゃう。就職決まったくらいで、髪を伸ばす反抗期、あるいは新しい価値観を探す旅は終了となってしまうわけです。
ところが摂食障害の人は止められない。引っ込みつかない。意思を通す。我を通す。暴れ通す。ほんとに解ってもらえるまで止めない。というか、止められない。もうそこまで追いつめられてしまった以上、流して生きるということができないのです。新しい価値観というか、自分が納得できる価値観が得られるまで妥協することができない。
だから、なのはなは解ってもらえるまで止めないという人が集ってきて、お互いに理解し合う場と言えますね。納得できる価値観を知ってからではないと、回復軌道に入れない。自立には向かえない。そんなふうに僕は思います。
考えてみると、いちご白書をもう一度に「もう若くないさと君に言い訳したね」という歌詞がある。就職が決まったくらいで、もう自分なりに悟りを得たというか、社会と折り合いをつけられるくらいの大人になりました、と言い訳しているんですね。
言い訳が必要だということは、女性のほうは、あなたそれは軟弱でしょ、とまだ言っている気配がある。まあ、それはどうでもいいですけれど。
ともかく、古い価値観に理由をつけて終止符を打ち、新しい価値観を得たい、という欲求が子供の時から強かった、というのはとても勘が良すぎるくらい良かった子供時代だったとも言えるでしょうね。
(2021年5月20日掲載)
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