自分は畑作業が忙しいと思っていて、同時並行でイベントのダンス練習をするとき、自分の中でダンス練習をやらななければいけないという感覚が苦しくなってしまいます。
間違ってるんだろうなと思っても、時々それがすごく強い苦しみに感じてしまうことがあって、でもスタッフさんは、自分よりも忙しいはずなのでもっと苦しくなって、余裕がなくなるのかなと思うと、そのことを心配して余計に苦しくなります。
誰かがそういう空気を出してるわけではないんですけど、そういうやらなければいけない、という苦しい感覚になってしまうのはなぜでしょうか。
【お父さんの答え】
やらなければいけない感を感じて苦しくなる、というのは個人的な問題で、ほかの人はそれは感じていないと思います。
普通の人は、もっともっと楽しんでやっていると思います。
畑作業、楽しいからやっている、ダンス練習、楽しいからやっている、ということでノルマ感をいっぱいに感じながらやっているという人はほとんどいないと思ったほうがいいでしょうね。
それは、元を辿ると、子供の頃に全く遊びをしたことがない、楽しいと感じたことがほぼない、ということが大きな原因になっているように思います。
今日も子供がいる卒業生からメールが来たところだけど、娘がお母さん遊んで、とくるとつい洗濯ものを取り込みたいとか、料理を作りたいとか、お風呂を洗わなきゃとかで、後でねとか、ちょっと待ってねと言いたくなってしまう自分に気がついたという。
だけど、振り返ってみれば、自分が子供のときはいつもそうやって後でね、と言われて遊んでもらえなかったな、それが嫌だったなと思いだしたというのです。
これじゃいけないなと思って、家事は先送りして遊んだという。そうやってひとしきり遊ぶと、あとは一人で遊びだす、というのですね。抱っこ、抱っこというのもなくなるということでした。
あとはお風呂に入れたときも、できればさっさと身体を洗って、温まったら外にだしたくなるけど、踏みとどまって一緒に遊ぶようにしているという。シャンプーの空いた瓶を使ってジュース屋さんごっこを洗い場でしたりすると、とても喜ぶという。
考えてみると、娘はまだ3歳だから、見るもの、聞くもの、全てが珍しくて、ただ泡が出るだけでも、ただただそれが面白くて遊びたがる。一緒に遊んでやると、とても喜ぶんだなと、今さらながら気が付いたという。
それまでは、それ無駄になるからもうやめてとかね。あるいは身体と頭を洗ったら、遊んでないですぐ出なさい、となっていたけど、それやっちゃいけないなと思ったという。
親が一緒に遊んでやると、すごく安心して面白がって遊ぶし、ある程度、遊んでやった後は、1人でも遊べるようになる。
だけど、そういう経験がないまま大きくなってしまった人はどうなるか。やることすべてに面白さを感じることができなくなる、ということがある。すべての行動がノルマでしかない。まったく遊び心が育たないし、面白さを感じる心も育っていない。
だから、そういう人は「無駄話」ができない。心に遊びがないからね。必要なことを話すことはできる。しかし、必要ではない話しというのがまったくできなくなる。
それと、無駄話を出来ない人は、表情が乏しい。感情も乏しくなってしまう。
親から相手にされてこなかった子供というのは、大人になってもう無駄話ができなくなってしまう。それは自分自身に対しても同じことで、自分の頭のなかに、無駄話がない。
だから、そういう人は何もやることがないと不安になります。基本的に1人遊びができないということは、1人で仕事を作るということもできない。
だから、やることを与えられると、嬉しくなって、いそいそと与えられたことをやる。例えば種まきでも何でもいそいそとできる。一生懸命やっているんだけど、それはなんでかというと、暇つぶしができるからというだけなんです。
やっていることの全てが「暇つぶし」なんですよ。空白が怖いから暇つぶしが嬉しい。人生の空白、1日の空白が怖い。自分では何もやるべきことを思いつかないから。
だから、空白を埋める作業があることは嬉しい。嬉しいけど、暇がつぶせたから嬉しいのであって、その作業を楽しむということは全くできない。暇つぶしなだけ。実際にはノルマ感が伴った暇つぶしというべきかな。
暇つぶしなんだけど、自分にやることがあると、自分の人生がちょっと満たされてるような錯覚に陥って、とりあえず安心できる。
ところが、これもやって、あれもやってとやることが増えていくと、たちまちアップアップしてしまう。楽しみでやっているわけじゃないし、ただやることがあれば嬉しいというだけなので、それが増えてきてあれも、これも、となってきたら、もう苦しくなるだけ。暇つぶしのはずが、暇がなくなりすぎるので、苦しくなる。
普通の人は、基本的に心を遊ばせながら、ゆとりを持って、彩りを持って暇つぶしじゃなくて、それぞれどんなことをするにしても意味のある人生を生きてるから、意味のある人生の中での野菜作り、意味のある人生の中での楽しみの中の一つとしてのダンス。
すべてが楽しみとしてやっているから、それが増えても楽しいな、嬉しいな、としか感じません。忙しくなって、手がまわらない、というときには、誰か他の人に手伝ってもらったり、代わってもらったりも自在にできる。いってみればノルマを押し付けるわけじゃなくて、楽しみを代わってもらうという感覚なので、何の後ろめたさも感じない。
ところが、ノルマ感、暇つぶしでやっている人は、人に作業を譲ることができません。ただアップアップして個人的に苦しくなっていくだけになる。
ダンスで踊る曲が増えたけど、嬉しいな、楽しいな、でもバンドに入っているから、練習時間が足りない。どっちも楽しけど、無理はしないでこっちを減らそう。これはやめよう、とかいくらでも提案できるし、一部はやめることもできる。自分の楽しみなので、精一杯までやるけど、無理だったらやらない、ということが自在にできます。
ノルマでやってるわけじゃないので、こっちは誰かに譲って自分はこれとこれだけにしようというように、いくらでも引っ込めることもできるし、少し無理をしても楽しいから頑張ろう、というふうにもできる。どっちにしても、ゆとりを持って自分の心をいつも楽しませています。
だから、どんなに忙しくなっても、イライラしたり、苦しくなったりすることはない。それが楽しみでやってなくて、人生の暇つぶしでやってると、自分の仕事がないとたちまち不安になるし、自分の仕事が増えたらたたちまち苦しくなってしまう。その間、ちっとも楽しんではいない。
野菜を育てるときには、植物との間で無駄話をしたり、対話をしたりしているものなんです。よく心を入れた仕事というのがある。うちは桃を育てているけど、うちの桃を食べた人から、なのはなさんの桃は本当にかわいがられて育ったものだな、ということがよくわかりますと言われたことがある。それ本当だと思います。
最初はそう言われた意味がわからなかったけど、よその農園の桃を買って食べたときにすぐにわかりました。もう箱を開いただけで、全然、違う。箱にかけた紙のデザイン、佇まい、箱を開いてすぐにわかる桃の詰め方、桃の佇まい。まるで違うよね。
よその桃はそっけない、という感じがしたけど、うちの桃は全くそうではない。
桃に関わっている人がみんな、心を使って、よりよくあるようにという気遣いをしているのが形になるし、味にもなっている。ノルマでやっていない人が作る桃です。
それをノルマでやっていたら、全部つまらないし、作られている作物もつまらないものしかできないと思います。
極端なことを言えば、まったく親に遊んでもらえない環境で育って、心を遊ばせる方法をまるっきり見失ってしまったのだと思います。
いまなのはなで育っているたけちゃんは2歳でも、みんなに遊んでもらって、お喋りをして、誰にでもいろんな話題を的確に振って、誰とでも話ができている。もうあのぐらいの年でそれを身につけることができていて、社交性がそだっている。それぐらい簡単に身につくことなんだけど、心に遊びがない母親に育てられてしまうとそれがとても難しいことになってしまう。それをよくよく感じて、もう1回ちゃんと自分を育て直したほうがいいんじゃないかな。
自分をもっと楽しませる。どんな仕事をしても、誰も苦しくなりながら仕事をしてはいない。みんなもっと楽しく生きている、ということをよく解ったほうがいいと思います。
(2023年5月1日 掲載)
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