ハウスミーティングに関連して話していた子のなかで、前は泣けなかったのに、泣けるようになったという話があったと思うんですけど、自分もなのはなに来る前まで、映画を見たり、本を読んでも、感動して泣くようなことは全くありませんでした。
なのはなに来てからは、本を読んだり映画を見て、涙がボロボロ出るっていうまでには、まだなってないんですけど、心が揺れ動く感じがわかるようになってきたとは思っています。
今日お母さんがWBCの野球の話をお昼のときにしてくださって、それを聞いたときにすごく鳥肌がゾワゾワってたつほど感動しました。涙が出るところまでは行かなくって、もっと心が開いてたらいま鳥肌で止まってる状態が、もっと自然に心が動くようになるのかなって思ったんですけど、そういうことですか。
【お父さんの答え】
母親から度々、強く叱られている子が、られるのを常に警戒するようになると、喜怒哀楽の感情がうまく働かなくなります。
何かに集中してしまって、ついうっかり母親の視線に注意を向けることを忘れてしまったら、それこそいつられるかわからないし、母親がいつ機嫌を損ねるかわからないので、常に感情を殺して母親の気配を窺う人になってしまいます。
それが習い性になると、母親がいないときでも、常に人の機嫌を窺うようになります。
親の中には、子供が笑ったりすると、私が不機嫌なときに無駄に笑うんじゃないと叱り飛ばす親もいます。だからうっかり笑うこともできない。泣くこともできない。それで笑いもしなければ、泣きもしない、という喜怒哀楽の薄い人になってしまいます。
身体でもそうで、身体をずっと動かさなくなると、関節が固くなって可動域が狭くなるように、心もあまり動かさないようにしていると、心の可動域が狭くなっていく、ということが現実にあります。
心の可動域が狭くなってくると、無防備に笑ってる人を見ると腹が立つ。泣いてる人を見ると腹が立つ、怒ってる人を見るともっと腹が立つようになる。人の感情が動いているのを見るだけでも不愉快な感じになってくる。
しかし、本人はその自覚が薄い。自分では、嬉しいとか悲しいという感情を普通に感じることができるし、そういう感情を知ってるつもりなのだけど、実は喜怒哀楽の幅がとても狭くて、普通はもっともっと感情の幅が広いと思わないのです。だから、喜怒哀楽の肝心なところを感じることができない。
なのはなファミリーには摂食障害の症状が重い人が来ますが、そういう人はよほど意識的に感情を広げていくことを意識しないと感情が広がっていきません。
極端に感情の幅が狭くなってしまって、楽しい事を感じなくなって何年も経ってしまった人は、「私は治る必要がないです。治りたいとも思いません」という領域まで行ってしまうことも稀ではありません。
だから、喜怒哀楽の情緒が薄いのも症状の一部で、もっともっと感情の幅を広げていったほうがいい、と自覚することはとても大事だと思います。
(2023年3月25日 掲載)
Copyright © なのはなファミリー 2024 | WordPress Theme by MH Themes