私は、自分では気遣いができないと思っています。何かがあると、頭が止まってしまって、どうしたらいいかわからなくなり、すぐに動けません。お父さんは摂食障害の人は二次的なダメージがあるといっていて、認識力が低くなると気遣いもできないのかなと思います。どうしたら気遣いができるようになりますか。利他心で動ける人というのは、気遣いができている人ということでしょうか。
【お父さんの答え】
まず気遣いができるようになるには、気遣いのできている人を知ることが大事ですね。この人は気遣いができているということを知ると、どれが気遣いなのかをわかるということですからね。
ところが、気遣いのできない人というのは、気遣いができている人が見えないのです。それがいつまでも見えない限り、気遣いのできる人にはなれないでしょうね。たとえば、この中で気遣いができているのは誰でしょう、気遣いができていない人は誰でしょう、という目で見たとき、それはこの人だというのが、ぱっと見ただけでわかる人は気遣いができている人です。
人の気遣いが読み取れる人であれば、自分もできるようになるのです。それが気付かなければ、いつまでたってもその気遣いをまねることができないので、気が付かない人のままになってしまいます。
(質問者)
コンバインの補助で、運転しているお父さんが見えないところを見て、上手にリードするようなことも気遣いですか。
(お父さん)
それはコンバインの補助であって、気遣いとは言わない。それはコンバインの補助が上手いか下手かというだけです。気遣いというのは、誰も気が付かなくてスルーしてしまうようなところを、その人の気持ちを汲んでさっと助けることができるということです。
その人がちょっと助けを求めているけど、微妙に言葉にしにくいところに気付いてサポートできるかどうか、というのが気遣いでしょう。
誰もが見落としそうな助けが必要なところに、すぐに気付くセンサーが必要なのです。そして表立って助けるのではなく、周囲に気付かれないうちにさっとフォローして、その人の困り事を誰にも知られないうちに解消してしまう、というものです。だから、センサーのない人は、目の前で気遣いのある行動があっても、見落としてしまって、何もわからないということがあるのです。
そういう気遣いに気がつくためには、気の利く人のそばにいるときは、その人の動きをそれとなく観察して、どんな気配り、気遣いを人知れずしているのか、見て吸収することが大事なのだと思います。
(2023年9月21日 掲載)
Copyright © なのはなファミリー 2025 | WordPress Theme by MH Themes