質問
何のために変わろうと思ったら、自分の為に変わろうとしなくなりますか。
自分のために(強く、優しく、謙虚になりたい)という気持ちではいけないような気がします。
変わりたい気持ちも、人のために持つべきなのでは? と思ってしまいます。しかし、何をどういうふうに、人のためにという気持ちを持てばいいのか分かりません。
正しく、でも、気楽でいたいです。
具体的に、正しい心持ちを教えて頂けると嬉しいです。
答え
何のために変わろうとしたらいいか、ね……ううん。なるほど。
あの、僕はみんなくらいのときにね、変わりたいなと思ったのはね。
例えばね、好きな異性がいるとしますよね。みんなだったら男性でね。良い年頃のね。
その人に相応しい人間になりたいな、って思うのは、割とノーマルでしょうね。
恋愛までいかなくてもね、あの人、格好いいな、という憧れの人って、普通いますよね。
でもとても頭がいい東大を卒業したような人が、「恋愛の努力目標が分からない。恋愛は到達点がないから」とか言うと、かっこいいんだか、かっこ悪いんだか分からなくなってしまう。
凄く頭のいい人がいてね、司法試験も大学3年生の時に受かってしまったほどで、この人は、目標がはっきりしていると努力しやすい、結果を出しやすいといってます。スポーツは努力しにくいし、恋愛だと、もっと努力目標が分かりにくいから難しい、という。
そういう人は、好きな人がいなくなってしまいます。もし、好きな人がいるんだったら、その人に相応しい人になるというような努力目標を持てるはずなんです。
僕も、同級生の中には、あ、こいつかっこいいな、っていう人がいました。中学生でも高校生の時でもね。格好いい人っているでしょ。その人に相応しい友達になるには、もっと、こうしなければいけないとか、こうあっちゃいけないだろとか思ったり、格好いいなと思う友達と較べたら、自分がお粗末に見えますよね。
恋愛にしても、あるいは男性同士、女性同士の友情にしても、いい人であろう、良い友達であろう、良い人間でありたいとか思えば、もっと成長したいと思うものなのです。
僕からしたら異性の女性だとすると、その人と付き合ってるとか、付き合ってないとかじゃなくて、あ、いいなっていう人がいたとしたら、なんでいいかっていうと、その人が綺麗だったり頭良かったり、スポーツができたり、上品な感じがしたり、そういう所に惹かれるわけです。
そんな人にも見劣りのしない、相応しい自分になりたいなって思います。要するに、その人を自分より上に見るから好きになるんだね。
同級生の男同士でも、潔いな、男らしいな、運動神経が良いな、勇気がある、男気があるとか、相手を上に見て、自分もそんなふうに高まろうとするよね。
まずは、僕はみんなくらいの時によく人を好きになりましたけど、恋愛してるときにいいことっていうのは、自分が謙虚になるんだよね。自分は下だな、まだまだだなって思うんだよね。相手と競争するんじゃなくて。
有島武郎の「愛は惜しみなく奪う」っていう小説がありますけど、相手の良いところを吸収して吸収して吸収して、どこまでも高くなりたいっていうね、相手の良いところを奪い取るように良くなっていく。そういうのがいい恋愛だというのを有島武郎は言ってますけどね。
恋愛じゃなくても、人を、凄いな、立派だなと思ったら、絶対自分がみすぼらしく感じるわけですから、そしたら、こんなみすぼらしい自分じゃいけないっていう努力目標が見えるでしょ。
逆に言うとこの質問をした人は、人を好きになったりしてないのかなって思います。この人いいなっていうのがないんだろうか、感じないんだろうかと――。
例えば綺麗な写真を見る、感動する。自分もこんな写真を撮れるようになりたいな。レコードを聴く、良い演奏を聴く。自分もこんなところにいきたいな、こんな曲を作りたいな、こんな曲の指揮をしてみたいなとかね。感動させたいなとか。
凄いいい絵を見たら、凄いなあと思ったら、絵に相応しい自分になろうとか、こういうレベルに自分もなってみようとか。レベルの高さを感じれば感じるほど、自分のいろんな、なにがしかのレベルを上げる。そんなふうに思うのが普通なんじゃないでしょうか。
見た事も聞いた事もない、みんなくらいの時には感動があるから、なおさら、こんなふうになりたいなと。
みんなくらいのときの感動は、一生忘れないんじゃないかな。
一生って短いですからね。
おばあちゃんも、言ってました。若いとき、交通事故で70歳で亡くなった人のことを聞くと、70歳まで生きればまあいいんじゃないのって思ってたけど、自分が年をとると80歳を過ぎても、まだまだ死にたくない、もういいって思わないって言ってました。人生はほんとに短い。だけどみんなくらいのときには、感動は大きいよね。
こないだも、ちょっと思いついたんだけどね。志賀直哉だったと思うけど、短編の小説でね。主人公が、小さい小川を流れてる花と会話する(「菜の花と小娘」)。花が喋ってるわけだ。流れに合わせて、とととっと追いかけながら喋ってる。
それ読んだとき、(花が喋って良いのかよ)っていうね。なんで花が喋るんだと、びっくりしましたよね。あ、花が喋っても良いんだ。小説だから何書いても良いんだしなあ。なんで、花は喋んないもんだって決めつけてたんだろうっていうね。
すごいな、小説ってすごい。自分もそんな小説を書ける人になりたいなと中学生くらいの時に思ったんです。
自分のそれまでの、ありきたりな考えが打ち破られるような強烈な新鮮な感じでした。もし喋りたかったら、ストーブの煙突と喋っても良いんですよ。
お母さんに言ったっけか。こんなことを考えついたんです。
ある晩、主人公が寝てたら、右手が自慢するんです。
「自分はこんなに役に立ってるんだ。それに対して足は、じゃんけんひとつできないじゃないか」
足は反発して、
「そんなこたあない。俺たちがいなかったら、お前たちはどこにも行けないじゃないか」
そういう小説があってもいいんじゃないか、なんて考えてるうちに時間は尽きてしまうんですけどね。どうなんでしょうね。で、なんで右手はぐちを言ったんでしょうね。それだけじゃなくて、右手は左手に対しても「自分のほうが役に立っている」という優越感を持ってるんですね。夜中にですよ。主人公は寝てるんですよ。どうやら「自分への評価が低い。こんなに役に立ってるのに感謝の言葉一つ無い」とそのことに対して右手が非常に不満を持っている。そんな小説を思いついたんですけど。
あ、やめましょうね。質問、何だっけ?
何のために変わるのか。今のままじゃ、嫌でしょ。成長するって楽しいでしょ。だから成長していくんです。つまり、変わっていくんです。
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