私はリーダーをするとき、どうしても罪悪感が伴います。
例えば畑作業で、時々リーダーをすることがあります。「リーダーをしてください」とみんなの前で名指しで言われたときは、あまり気にせずできるんですけど、途中までスタッフさんがリーダーをしていて、急にスタッフさんが抜けることになったときには困ってしまうことがあります。
その作業を知っているのが私だったりするので、途中から参加してきた人に、選別作業ならその作業の選別基準を伝えたり、後片付けするときのタイミングの声かけを、私がやることになります。そういう時に、自分は人の上に立って偉そうなんじゃないかとか、誰かに出しゃばりだと思われていないかとか、不安になってしまいます。
そういう不安な気持ちをどう考えたらいいでしょうか?
【お父さんの答え】
その話しを聞いて、子供が進学して最初の保護者会で、PTAの委員を決めるときのことを連想しますね。
その学校がどんな学校かによっても違いますが、よくあるのは、今の小学校では誰もPTAの委員をやりたがらない。みんなお互い初対面でよくわからないということがあったり、遠慮の塊というか、面倒なことはやりたくないという塊になって、みんなできない理由を並べて押し付け合ったりする。しまいにはジャンケンで決めよう、なんていうことになってしまう。それは子供達からしたら、とても無責任なことだと思います。
PTA全体の役員になると、役員の選考委員がいて、これと思う人のところへ行ってPTA会長になっていただけませんか、という話しをしたりするから、また少し別です。
ともかく、PTAの場合には、誰のために役員をやるかというと、子供の環境づくりに親も責任を持って見守っていくということだと思います。
面倒だとか、恥ずかしいとか、出しゃばりだと思われたくないというのは、本質からズレた話で、子供のためにできることを親が協力してやっていきましょう、という姿勢だけが問題なのだと思います。
例えば、豆の選別作業をするとなると、その本質は美味しい豆を食べるために、クズ豆を選別するわけです。みんなで協力して、クズ豆が混じらないようにすればいい。そのために、選別基準を知っている人がより正確に基準を伝えるとか、効率が悪くなってきたと思ったら、より効率よく選別を進めるために、こういう方法でやろうと提案する、というように、豆の選別を高いレベルでやれるかどうかを1番先に考えるべきですね。
その時に、自分が教えたりしたら、自分は周囲の人からどう評価されるだろうか、と心配したり、立ち位置を気にしたりというのは、全く必要のない感情です。自意識過剰というべきですね。
自分の評価を決めるための活動なのか、それとも美味しい豆を正確に選別するための活動なのか、そのどちらに比重がある活動なのか、ということです。当然のことですが、評価を決めるための活動ではないので、そこの心配をするというのは正しくないですよね。
だから、誰がリーダーをしようが、それはあまり重要ではないです。
もう20年以上前のことですが、僕がNPOハートピーという団体を立ち上げて障害の子供の発達訓練指導のノウハウをイギリスのセラピストと共に日本に導入したとき、何の資格もありませんでした。
それで、当時は全国の60家族の子供達の訓練指導をしていて、その家族は毎日、訓練をしていました。
では、日本の医療制度ではそういう子供達にどういう指示をするかというと、1週間に1回、理学療法士の訓練を受けてください、2週間に1回、理学療法士の訓練を受けてください、というようなことでした。いくら資格があるからといって、3歳児、4歳児のぐんぐん発達していく時に、2週間に1回、1時間足らずの訓練で間に合うはずがない、と考えました。
それでイギリスで行なわれていたボランティア主体で毎日行なう訓練を日本に導入したわけです。そして、日本では訓練ボランティアを集めるのが難しいというので、その家族の地域でチラシを撒いて、ボランティア説明会を開いていました。数千枚のチラシをまいてだいたい50人くらいの人が集まって、30人くらいが毎日の訓練をしてくれるボランティアさんになってくれました。
しかし、そのボランティア説明会にイギリス人セラピストを呼んでくるわけにはいかないので、自分で講演みたいにボランティアについての説明、訓練についての説明をしなくてはならない。
不特定多数にチラシを撒くので、色々な人が来ます。もちろん理学療法士、作業療法士がどんなことをやろうっていうんだ、という感じで乗り込んできたこともあります。
一度、こういうことがありました。その時も地域の人が50人くらい集まって、説明や訓練のデモンストレーションも一通り終って、何か質問はありませんかと言ったとき、サッと手を挙げた人がいました。
「私はこの家族が住んでいるマンションの真下の家に住んでいる者です。ただでさえ、毎日、この子が歩くときにドシンドシンと大きな音を立てるので、天井から吊るした電灯が揺れるほどです。その上、こんな訓練を毎日やられたらたまったものじゃない。やめてもらいたい」
その場にいた全員が冷や水を浴びせられたように凍り付きました。
僕はすぐに言いました。それは申し訳ないことをしました。ご迷惑をかけて、すみません。ただ、少し考えてください。この子が鉄筋コンクリートの立派なマンションが揺れるほど足音を立てて歩かなければならない障害を負っているわけで、それだけ天井が揺れるなら、この子の脚はどれほど痛めることになるでしょうか。障害があるからこそ、身体を痛めないような歩き方ができないわけで、静かに歩けるように、身体を痛めないで歩けるようにするために訓練をしてあげたいと皆さんに集まってもらったわけです。
もちろん、訓練で音がしないように防音のマットは敷きましょう。それはできますよね、と親御さんに振ると、もちろんすぐに手配します、ということでした。
これ以後、この子がどこにいっても皆さんに迷惑をかけない身体にしていくために、そのためにも訓練することを許してもらえませんかというと、その方はそれ以上は何も言いませんでした。その場の空気がなごんで、その場にいた方々のほとんどがボランティアとして参加してくれることになりました。
実際、誰が考えても、マンションが揺れるほど、人の力では音を立てられるはずがないですよ。言いがかりなわけです。それはすぐにわかることで、揺れるわけないでしょう、といったところで埒が明かない。だから本質的なことだけを言った。たまたまその場にいたほとんどの人にそれが伝わったので、その人は引き下がらざるを得なかったのです。
人が何かしようというとき、必ず人の前に立って話しをしなければならない場面があります。それは、どんな人から、どんなことを言われるかわからないという点で、とても怖いです。時には攻撃的に何かを言われることもあるでしょう。
だけど、大事なことは何のために人前に立つか、ということです。自分のことはどうでもいい。本質的な目的を達成する為に、たまたま自分が前に出ているだけで、精一杯の気持ちで誠実に伝えるべきことを伝えればいい。それだけを考えたらいいと思います。
人前に出るということは、時に叩かれることがあるということです。だから叩かれてもいいという覚悟で出ていく。どう思われるかというのはどうでもいいことです。何かを言われたり、自分が試されるような出来事は必ず起きると思って、そうなったら頑張って最善を尽くして闘う、と覚悟することです。全力で戦って負けたら、仕方ないとあきらめもつきます。
ただ、本質を考えて、最善を尽くすだけでいい。僕はそう思います。
(2023年4月9日 掲載)
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