宗教心についての質問なんですけど、私の印象として海外の人はキリスト教会とか日曜学校に行って、神様を信じてる人が多いと思います。でも、日本人と海外の人とを較べてみると、信仰心が薄いと言われてる日本人のほうがモラルが高いと私には思えてしまうのですが、それはどうしてなのか、教えていただけると嬉しいです。
【お父さんの答え】
その理由は江戸時代にあると思います。日本は世界でも例を見ないほど長期に亘って、江戸幕府が治めていました。15代将軍まで、300年間も続いたんですね。
この300年も続いたことで一番良かったと思うのが、身分制度で士農工商を作ったことではないかな、と思います。
身分制度があることで、どんなに頑張ってもその身分を変えることはできないから、無駄に出世しようという考えがなくなったと思います。農業をしている人は、みんなに尊敬される篤農家になろうとしたし、大工をしている人は立派な棟梁になろうとしたし、当然だけど商人は商人として、立派な商売人になろうとした。誰も総理大臣になろうとか、努力さえすれば、青天井でどこまでも出世できると思わなかった、ということがよかったと思います。
努力しても、職業の枠という天井が決まっているために、それぞれの枠の中でモラルが磨かれたんじゃないかと思います。それぞれの持ち場で、技術を磨いたことで、町人文化が栄えたのだと思います。つまりモラルが磨かれたり、人格も磨かれた。
それに対して西欧では、宗教家と政治家の2頭立てで、国を統治することが多かったと思います。つまり、宗教家の権力と、その政治家もしくは軍人の力が同じぐらいに強いものだった。だから努力して政治家のトップになっても、宗教家のトップになっても、国を治める頂点に立てる。
その権力の大きさも青天井なわけです。もっぱら外国に侵略するときに、宗教家がまず見知らぬ土地に行って、まずは宗教を広めて、抵抗力をなくさせておいてから軍隊で攻めていって支配するというパターンです。だから宗教家と軍人、政治家というのはずっと2つ並んで権力を握る出世街道でした。どちらかでトップになることを目指せば、権力者になれたわけです。
そういう外国に対して、日本は身分制度という枠のなかで、幸せになるためにどこを向いて努力するかというと、立派な人間になるために努力する、という時代が300年間も続いたわけです。この300年間で育まれた伝統はとても大きなものだったと思います。
以前、アメリカの大学の卒業式に出たことがあります。大きなホールに卒業生の家族がたくさん詰めかけていて、座席では満員の人たちがポップコーンやら、キャンデーやら、アイスクリームとか、やたら食べながら見ているのはいいとして、卒業式がひと段落してみんなが席を立つと、驚く程、足下に食べたものを散らかしたままになっていた。溶けかけたアイスとか、床にべったりついている。
日本ならどんな大きなホールでも、こんなに食べ散らかしたり、ゴミだらけにはしないだろうと思いました。掃除する人がいるから片付けるのはその人の仕事でしょ、と言わんばかりの散らかし方にモラルの違いを強く感じました。
しかし、今の日本はそういう日本人が伝統的に持っていたモラルが少しずつ薄まってきている感じがします。あおり運転の罰則が新たに設けられたなどというのもモラル低下の象徴でしょう。それというのも、今は努力した者は青天井でどこまでも出世できるし、何にでもなれる、という時代になっていて、勝ち組、負け組みたいな発想が多くなってきたせいだと思います。
江戸時代の終わり頃、日本にやってきた外国人が、日本人は不思議な国民性だ、身なりは質素だが決して不潔ではない、表情は穏やかでみな笑顔を浮かべている、どの人を見ても幸福そうに見える、と報告書を書いています。
300年間で培った日本人らしいモラルを、なんとか保ち続けたいですね。
(2023年7月27日 掲載)
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