自分の課題として、今も昔も共通することなんですけど、何か困ったことがあったとき、人に相談したり、アドバイスをもらうために話をすることがすごく下手です。
自分で解決しようとして紙に書き出しても、結局、自分の人格が悪いという結論になってしまって、そこから何か自己否定が始まり、気持ちを立て直すことができなくなることが多いです。それを直したいんですけど、どうしたらいいでしょうか。
あと、お父さんが自分と同じくらいの世代だったとき、お父さんはどのくらい人と話したり、どうやって困ったことを解決して生きていましたか。
【お父さんの答え】
まず最初の質問に答えると、人はそれぞれ、人生のテーマがあるような気がしています。
ストレートに言ってしまうと、質問者の場合には「誰からも怒られない人生」がテーマになっているように感じます。
「怒られない人生」を標榜していると、何にも生み出さないですね。
人生のテーマを大きく二つに分けると「何かを生み出すための人生」と、「怒られないための人生」とがあって、この二つのうちのどちらか一つを誰もがやっています。
「怒られないための人生」をやっていたら、何をやっても怒られるような結果にしかなりませんね。だから「怒られないための人生」っていう看板を下ろすこと、それが真っ先にやるべきことで、それが全て、といってもいいくらいです。
子供の頃に、きつく怒られてきた怖さが残っていて、未だに「怒られない人になる」という大看板を下ろせないでいる。だから自分の周囲の全ての人が、自分を怒る対象として見ているだろうという怖さがとれないんです。
それで、誰にも相談できなくなっています。相談するということは、自分の失敗を見せたり、弱みを見せることで、それを見せたらきっと怒られると思うと、自分の弱みを見せられないからです。
そして二つ目の質問の答えですが、僕はかなり早い段階で小説家になりたい、物書きになりたい、と思いました。物書きというのは、自分が見たり、聞いたり、体験したり、考えたことを書くのが仕事です。
生きにくさを抱えていて、とても辛かったので、それがどこから来ているのか、どうやったら解決するのか、知りたいと思っていました。
いま思えば、相手を選ばず、自分の苦しさを解ってほしいという気持ちでしゃべりまくっていた、という感じがします。もう考えたことは全部、書いてやるんだ、というスタンスですから、「自分のつらい気持ち」というのは、それが恥だという思いよりは、知ってほしい、解決の道を知っていたら教えてほしい、という気持ちで一杯でしたね。
モノを書くというのは、自分の心の内側を全部、さらしてしまうという行為なので、どんなことでも心の内側をさらして見せてしまう、という練習をずっとしてきたということかもしれませんね。書くのも、話すのも、気持ちを全部、晒してしまう、ということでは同じです。
恥を晒す怖さより、解決したいという気持ちのほうがずっと強かったとも言えます。
ずっとそういう生き方を通してきたお陰で、辛さの理由とか、解決する方法がわかっていったのだと思います。
そういう生き方を始めたときは、自分と同じ辛さを耐えている人に解ったことを少しでも伝えられたら自分が生きていく意味がある、と思いました。自分のためというより、自分と同じ痛みを抱えている人のため、としか考えていなかったのですが、それが結果的に自分を助けることになったのだと思います。
(2023年7月3日 掲載)
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