私は、自分を楽しませること、幸せに過ごさせることが難しく、辛くさせたり、気持ちを落とさせたり、すぐに決心を折ってしまいます。
自分を楽しませられないことは、誰も楽しませられない、幸せにできない、ということですか?
いつか出会える誰かのために、と思ったら、私も毎日を楽しんで、幸せになっても良いのですか?
また、自分が楽しい思い、幸せな思いになることに、罪悪感や抵抗があるのは、幼い頃に、親に対して何もしてあげられない、と思ったり、自分が親を苦しめているのに、その自分が親を差し置いて、笑ったり、幸せになってはいけない、と思う気持ちからですか?
【答え】
まさにその通りだと思いますね。
たまたまなんですけど、これを見て思い出しました――昨日、(ウィンターコンサートの)一番最初のセリフだけ、試しにつくってみたんですよ。
一番最初のセリフだけ。
ちょっと、書いたパソコンを持って来てみようかな。
何時くらいだろう。1時過ぎてた。むくっと起き出して、カチャカチャカチャって音がするんだよ。パソコンを打つ音が。(あっ)と思ってお母さんも見てて、また何かやってると思って寝たんだけど。
ただ、ちょっとどうなんだろう、夜中の1時半か2時頃布団の中に入っていて、メモしておこうかなと思って書いたのでね。意外とそういう、夜に書いたラブレターって朝になったら、ええって思って、出せないということあるでしょ。
ちょっと待って、だから……
あ、これだ、これだ。
ちょっとお母さんちょっと、読んでみて。
いやいや声出さないで読んで。どうなの。
いいんじゃない? この始まり。ちょっとしか見てないけど。面白い。初めとしては。
グレイテストショーマンやります。ね。
(お父さんが本文を読み上げました)
いいんじゃない、お父さん!
……というような感じで。
人生は1つのショーですよね。1人、ひとりが、この生きた身体をもらって動けるようになって、この世界で何ができるか、というショーでもあるんです。
これはイッツショータイムですよ。長い、80年間、90年間のショータイムですよ。
この世界に生まれてきたすべての人が、ショータイムです。
それなのにその人生を、ちゃんと使えない、ショーにできない。楽しめないんじゃ、もったいないよね。
何で楽しめなくなっちゃうの? っていうね。
誰もがショーを観たい。ショーを作りたい。そういう生き方をしたいと思って生まれてくるわけでしょ。
そうだよね。
それができなくなる。
これっておかしいよね。
何か、大事に生きていこう、変なことにならないように生きていこう、って先回りして、いろんな予防線を張っているうちに、いろんな準備をしているうちに、人生の本番が始まらないまま準備の海の中で溺れて、準備段階で消滅しちゃう。そんな人生になる人が、たくさんいる。
それって悲しいことだよな、と思ってね。
何でそんな事になっちゃうんだろうかなって。そんなことやめようよ。
もう予防線張るのやめよう、準備しすぎるのやめよう、本当に中途半端でも未熟でも良いから楽しもうよ、歩きだそうよ。未熟でいいから、精一杯でいいから、足りなくてもいいから、歩き出そうっていう、そういう気持ちで生きなきゃいけないんじゃないか。そうでなきゃいけないんじゃないか、ということだよね。
今、生まれてくる子供とかね。
小さな――自分の子供が生まれてくるとわかりますけど、最初に子供の顔を見たとき、もう、顔を見た瞬間に、色んな思いが溢れてくる。
それはね、「あっ、この子供に、ちゃんとした世界を準備できただろうか」っていうね。
この子はちゃんと楽しんで生きられるだろうか。
そう思ったとき、僕は現実を振り返ってがっくりしましたね。
なんかこう、ものすごい不完全な世界に自分の子供を生まれさせてしまったな、間に合うだろうか、この子供が大きくなるまでに――僕は、この地球上で生きているみんなの、社会の中の一員であるけれど、なんか自分の子供にとって、ちゃんと楽しめる世の中を、用意しておかなければいけなかったんじゃないか――っていうね。
それは自分1人でできないことだ、とは思うんだけど。
なんかそういう思いに囚われるんだよね。その思いに囚われたとき、ものすごく悲しく感じた。
自分が今まで生まれてきて辛かったこと、それが頭によぎりました。
その自分が感じた、辛かったことを、この子供が避けることができるか、辛くない人生にできるかと言ったとき、できなそうな感じがしてすごく辛かったです。
それは自分の子供が産まれて初めて思ったことなんだけど、誰も、そうなんだよね。
生まれてきたとき、すごい期待をして生まれてくる。
無意識のうちにね。
この世はみんな自分を優しく迎えてくれる。そうだよね、生後半年くらいの子供の顔を見たら、誰もが自分を育ててくれる、誰もが自分に優しくしてくれる、誰もが、本当にいい人ばっかりだって信じ切ってるよね、半年とか1歳の子供ってね。
だけど、何でそれができないのか。
何でそういう子供たちを、苦しめてしまうのか。
それを思うとすごく悲しくなる。
それができなきゃおかしいし、それができないんだったら今からでも自分の人生の時間を使って、苦しむ子供が生まれないように、何かしら自分が、世の中を変えるような役割を担わなきゃいけないんじゃないか。
だから今度のコンサートでも、今までもそうなんですけど、世の中を変えるような。見に来た人が、「こういう世の中じゃなきゃいけないよな、もっと優しい世の中にしなきゃだめだよね」と思ってくれるような。
今まで7回、こういう音楽劇をしていますけど、そういうものが伝わるようなストーリーにしたい、コンサートにしたい。
この人も、まだまだ楽しめないかもしれません。だけどまずは自分たちが楽しまなきゃいけない。
それは、僕は思うんだけど、例えば、ものすごく美味しい料理があるとする。
それを作って、自分を楽しませるために自分が食べる。ものすごく美味しいとする。
美味しくて幸せだなと思うか。
僕はあまり思わないね。まず、
「あ、これお母さんに食べさせたかったな。食べさせたいな」
「みんなにもこういうものを食べさせたいな」
と思いますよね。これが自分で終わりだったら、楽しくないな、と。
まずは、誰か、すぐ近くの人を楽しませる。
そうすると、「これ美味しいね」と言われたとき、すごく嬉しくなります。
僕も食べてみて、これ美味しいねと、2人で共有したときが嬉しい。
やっぱり自分の楽しさとか嬉しさ、喜びというのも、まずは自分を楽しませることですけど、その喜びって人に映さないと見えにくいんじゃないかっていう気がする。
例えば夜中に大きなダイアモンドを手に入れて、1人で、ピカピカ光ってるのを、(うわ、奇麗だな、これは自分のものだ)と思って、うひひ、うひひと言っても僕は、楽しくないなっていうかね。嬉しくないなっていうか。
そんなのいくら集めてみたって楽しくないんじゃないかな、と僕は思うのね。
誰かに映さないといけない。幸せや喜びは、誰かに映して感じるもの。
それが最初であって全てのような気がする。
確かに、幸せになる、楽しくなる、というのはすべてそうだよね。
この前、何年かぶりに子供達と釣りに行きました。すごい楽しかったです。
考えてみたら、僕は、1匹、小さなフグを尻尾に引っ掛けて釣っただけです。1匹も釣れなかったんですね。
一緒に行った、なのはなの子たちは何匹か釣れていました。
僕は釣れなかったけど、楽しいんですよね。良かったなあと思ってるんですよ。
何でかと言ったら、自分が釣れるのだけが楽しいという人だったら、もしかしたら楽しくないかもしれないんですよ。
でも僕は一緒に行った子たちが釣り上げて喜んでいる、それを見るほうが自分が釣るよりよっぽど嬉しいですね。
それは、みんな一緒だと思う。一緒に行った仲間が釣り上げて喜ぶのを見るというのはね、やっぱり幸せなんですよ。
今度は、他の人とも行って、もっとたくさん釣れるようにしたいなと思ってね。
この前は準備もせずに、いきなり行って、釣り道具屋さんでチョロチョロっと道具を買って、釣ったんですけど、今度は準備をしていこうと思ってます。実はちょっとずつ道具類を買い集めています。
釣具屋さんに行くとすごい高いので、ネットで、安いサビキ鈎とか。釣り道具屋さんをやめるときに店に残ってた古いやつとか在庫になってたやつを、ハードオフみたいなところに処分して、それを売ってるんだと思うんですけど、まあまあ、すごく安いんですよね。針は古くても使える。
そういうのをちょっと買ってるだけでも楽しいんですよ。
今度行ったときに、もう大きいのがかかっても、すぐには糸を切られないやつで、バンバン釣れたら、みんなもっと喜ぶだろうなと。
そういうのをイメージするだけでも幸せになってくる。嬉しくなってくる。そういう感じですよね。
だから、そうですね。過去のそういう、自分が楽しめなくなってしまったことというのは、仕方ないですよ。
だけど僕もお母さんもそうですけどね、――お母さんも辛く生きた部分があった、僕も辛く生きた部分があった――その辛く生きた部分をなにかに返していく。
さっき言った、世の中に向かって返していく。あるいは個人的な目の前にいる人にも何かで返していく。それをしながら、それを乗り越えてきているし、乗り越えつつあるし、意味のある人生にしていく、それは誰も同じじゃないかな。例外はないんじゃないかな、というふうに僕は思ってます。
で、中に、例外的な人がいますよね。傷をまったく負っていなくて、自分の欲で、自分が楽しくて自分のところにものをいっぱい集めて、自分だけが楽しんでればいい、という人もいます。
それはそれで良いんですよ。傷ついてない人は結構それで自己満足で生きて、死んでしまうという、それで良いんですよ。そのまま終わっても。
だけど、1回傷ついた人は、なかなか自分の幸せに対して懐疑的になる。あるいは楽しめないという部分が出てくる。だけど、自分は幸せを誰かに映していくんだ、という気持ちを忘れないことです。
遠い将来は世の中を変えていく、ほんの小さな力でもいいから、そういう意識を持って、そういう人になるんだ、と思うことで自分の未来を信じられたり、誰かの幸せ、喜びを信じられたり期待できるようになってくる。そういう希望があれば、そんなに落ち込まなくて済むようになるんじゃないかな、そんなふうに僕は思います。
(2018年10月16日掲載)
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