「きつく締められないこと」
摂食障害の前駆症状で蛇口をきつく締める、ということがありました。私は、9歳頃は、蛇口をきつく締めていたのですが、母親に「こんなにきつく締めると壊れちゃうよ」と不快そうに言われて以来、きつく締めるのをぴたっとやめました。
なのはなのお母さんは締めなさすぎ。参考までに、お風呂のお湯と水の蛇口があるとしますね、お湯の蛇口は軽くきゅっと締める、一瞬止まる。なんでか。お湯でゴムが柔らかくなってるので止まる。ところが夜中に起きてみると、……ちゃぽーん……ちゃぽーん……って寂しい幽霊の出そうな音が風呂場から聞こえてくる。幽霊でも立ってるのかなと思ったら蛇口から水が。
普通の家は、温度設定ちゃんと出来てるから。
熱い蛇口はお湯が止まったと思ってもちょっと締めておいたほうがいいですよ、ということだけです。参考までに。
【質問の続き】
――それと関係あるかないのかわからないのですが、私は蛇口は、水が垂れないギリギリくらいの緩さで締めるのが習慣になっていて、水道だけでなく、ネジとか、蓋とか、草刈り機の刃もそうですが、あらゆる締めるものが、力いっぱいきつく締められなくて、失敗したことが結構あります。ドアもきちっと閉めることがなかなかできずに――
誰? (私と)一緒だね。
ストーブを炊いているときでも、お母さんはドアを少しだけ開いておく。お母さんが来たら僕はドアを閉めに行く、閉めに行く。家に帰ると必ずどこかの電気が付いてる。
【質問の続き】
――少し隙間を開けておくのが安心です。
そうそう。
冬は不経済。
【質問の続き】
――きつく締めたり、ドアを完全に音を立てて閉じたりすることが、何かを壊してしまいそうな怖さがあり、できないと思いました。
また、今はそうでもないのですが、きつく締めすぎてなかなか開かない蛇口に遭遇すると、無性に怒りが沸き起こってくることがありました。
これはどういうことでしょうか。
〈自分なりの答え〉
母親のたしなめにより、ただ力づくでやればいいというものではなく、余裕や遊びを残すべきだということを、子供心に学んだ。
もっと人間的に学んだら、適切な強さで締めることができるようになる。
(適度な力の入れ加減を学ぶ)
きつい蛇口に怒りが湧くのは、きつく締めた人が、単純に力を入れるだけで遊びを理解していないということに、腹を立ててしまっていたからではないかと思います。
【お父さんの答え】
僕も、若いときあんまりきつく締められなかったくちですよね。ネジでもきつく締められない。なんか後で締めればいいんじゃないかとか、きつく締めたらそこでなにか終わっちゃう気がして、終わらせないで残しておくみたいな、そういう甘さが自分にもあったような気がするんですね。
これはやっぱり心の問題で、心がちゃんと、なんというか一つひとつに決着をつける、結論を出すというのを嫌がっているんですよね。結論を出した途端に終わっちゃうような、なにか物事が変化しちゃうような怖さ。すべてがありのまま、今のままであってほしいとなると、緩んでるやつは緩んでるままのほうが自然なんじゃないか。言葉にして言うとそんな感じで、ギュッと締めた途端に違うものに変質してしまうような、変わる怖さというものがあるんじゃないかというふうに思うんですよね。
蛇口くらいだったら時には適当でもいいかもしれないけど、ボルトやネジみたいなものは、きつく締めないとやっぱり困るときは困っちゃいますよね。
僕はみんなを見てきて、「適度な」というのがあんまりないんですよね。ネジなんかの場合、締めすぎるとねじ切っちゃうということがある。ボルトでも山が取れちゃうんですね、ツルツルにね。車のタイヤ交換でもボルト締めますが、締め足りなかったり、締めすぎてねじ山が壊れちゃったり、そういうことが何度かあります。
それからいろんな機械でもネジを締めすぎてて頭がこけちゃったみたいな、そういうようなことをした人を何度も見てきているんですね。
加減がわからない。それはちょっと問題だなというふうに思いますね。
僕くらいの年になるとだいたい加減がわかって、今は心置きなく締める。だけど強すぎない、適度に締めるというのが誰もみんな僕くらいの歳になればできるようになるんじゃないかな、と思うんですけど、意識して、心にけじめを付けていく、そういう心構えが大事なのかなと思いますね。
新しい袋から新しいネジを使うときとか、やっぱり、取っておきたいような、全てを取っておきたいような気持ちになっちゃいますけど、1回使ったら二度と使わなくなっちゃうんじゃないかみたいな怖さがありますけど、そこにけじめを付けていくんだということ。
どこかやさぐれた、壊れてもいい、どうなってもいいみたいなどこかヤクザじみた気持ちが、3割くらい。つまり、きちっと締めるけじめを付ける怖さが3割、ヤクザチックな、壊れてもいいなというのが3割。残り4割は曖昧。で、締めていく。そんな感じで行くと大体はうまく行っています。
で、……そうね、今でも僕はきつく締めてる人に、会ったらやっぱり――「無性に怒りが」と言うけど――なんでこんなきつく締めるんだと。やっぱりゴムでしょう、蛇口だったら。ギュッと締めてるのと適度に締めてるのだと、ぎゅっと締めるほどゴムが固くなって弾力がなくなっていきますから消耗度が激しいですよね。蛇口のゴムが減るじゃないかという、そういう怒りはちょっとわきますけど。やっぱり適度な関係であってほしいなというね。
似てるので、例えば御飯食べるときに、ものすごく噛んでる人。1回、一口ご飯を入れたら30回噛まないと消化に悪いと言われて噛んでる人を見ると、丁寧にもほどがある、とイライラしてくる。それに近いものがある、何事にも程度というものがあって。
物事ってやっぱり、時間が経っていくと劣化していく、壊れていく、過ぎ去っていく。物事は変質して変わっていっても仕方がないんだという、少し無常感というか、それでも仕方がないという気持ちをちょっと持つといい。
さっき「無常感」と言いましたけど。そういう気持ちをどこか後ろに持ちながらギュ、ギュ、ギュッと締めると適度な力加減ができるんじゃないかと思います。
これは、ただ締め方を覚えるというよりも、自分の心のスタンスをどう持つかというのが本質的な問題なんじゃないか、と思います。
包み紙、お菓子の包み紙とかでも全部、惜しげなくゴミ箱に捨てられる人は、割ときつく締められる。その包み紙をこれは後でなんかの飾りに付けられるんじゃないかと取っておく人は締められない人。僕は取っておいてもどこにしまったかわからなくなる人で、お母さんは必要な時に出てくるから不思議でね。
お母さんはしまってあるものがタイミングよく出てくるから不思議。みんなの日記で、これちょっと印象的だから、講演のとき使いたいなとか、あとで本人に突きつけてやりたいなとか思う時があっても、それが何日のか忘れちゃうわけですけど、お母さんは、「9月22日の日記」とかパッと出てくる。どこへしまっておいたんだ? というくらいすごくタイムリーに出てくるのが不思議ですね。それは立派ですよね。
締める、捨てる、どちらも似ていますよね。よく言えば、きつく締められない人、捨てられない人は、情緒が深いのかもしれませんね。
(2019年12月27日掲載)
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