お父さんに、「お前は親がいない子と同じなんだ」と言われた言葉が、自分の中にすっぽりと収まるのを感じました。
なのはなファミリーのお父さんとお母さんを、自分の親と置き換えること。なのはなファミリーを家にすること。そうすれば苦しさはなくなる。
そのことをすごく難しくしてしまうのは、自分には、置き換えることのできる親や家、家族すら、ないのかもしれないと思いました。人間味がないと、親や家族や家の意味、必要性がわからないとしてしまい、本当はそんな理屈もなく、かけがえのないもので、大切で温かいもので、生きていく上で必要なものであるという当たり前のことを、なかなか理解できないのだと思いました。同じように、生き物や動物、赤ちゃんの可愛さがわからなかったり、全く関心がないのも、人として当然持っているべき、理屈じゃない本能を、極端に失っているのではないかと思いました。
これは、両親があまりに、私から競争社会における無駄なものを排除して、理詰めだけの人生にしたからですか。人間味を学ぶには、人の中で得るしかないのでしょうか。
【お父さんの答え】
実際ね、親をなのはなのお父さんお母さんと置き換えようとしたら、自分の中に「親とはこういうもの」という痕跡でもあるからこそできることなのかもしれないね。
あまりにも親子関係が希薄な人は、親という言葉は知っていても、親というものの概念、捉え方、存在の形、どういうものか、それが自分の中にないので、親って何? というくらい親をどう思っていいかわからなくなっているんです。ちょっと、信じられないかもしれないですが、そういう人が少なくないです。
お父さんを親と言っても、どう思って良いかわからない。そういう状態くらいまで心が摩耗しちゃってる。
赤ちゃんを可愛いとも思えない。たいがい可愛くない。赤ちゃんって不細工ですよね。
だけど、卒業生の◎◎ちゃんの子供というだけで可愛がってやろうじゃないか、という気持ちになる。
可愛いって思うのも今話しててわかるみたいに、可愛いって全部含めての可愛さ。冷静に考えたら扇風機に張り付いてる小さい子って、奇人変人。
おかしみをおかしみと感じられないと可愛いとか、嬉しいとか、わけわかんなくなる。花が奇麗もそうだよね。
それがわからない、という場合、……どうしようかな。
僕が一番いろんな感情を学んだのは、一つは海で魚をとっていたことかな。子供のころ、たくさんの魚と遊んだり殺したりしていた。海牛とかナマコとか。
感情がなさそうでしょ。ナマコ、海牛。
海岸にナマコが転がっていたからブスッとヤスで刺したら、口からびゅわってはらわたが出たので、驚いた。それってナマコの防御術。内臓出して敵をびっくりさせる。知らなかったものだから、心底、驚いた。
話し違うけど、なまこのはらわたを塩でつけた塩辛、超美味しい。
感情がないんじゃないかというようなのを構ってたら感情がある。それでびっくりする。イソギンチャクだってそう。一種ほんとに下等な動物、自分に近しい感じ。が、意志を持っていたり、怒ったり逃げたり噛みついてきたり、こっちが逃げたり。自分の中の原始的な感情が芽生えてくる。同化する。カニくらいになれる。
遊んでいたら、そうなる。
魚の釣りもそう。いきものと関わっていると、僕は自分の中にいっぱい育んでもらえたものがある、と思っている。
そのあと小説。小説たくさん読んで、随分泣いた。途中からは、泣くために読んだ。泣けない小説は意味ないと。中1から高校、二十歳くらいまでそういう観点で読んだ。
考えてみたら“泣く”って何か、自分の感情を涙が出るくらい揺さぶられるってこと。
森村誠一の『人間の証明』、これは推理小説だけど実際は西條八十の『帽子』という詩をどう鑑賞するか、というために書かれたようなもの。
金子みすゞは泣けた。そういう泣ける詩だとか、小説にいっぱい涙を流すうちに、10代のころは恥ずかしいと最初思ってたけど、泣けば泣く程、涙は心の汚れを洗い去ってくれるものなんじゃないかと思うようになった。泣けば泣くほど、心が奇麗になるんじゃないか。それで小説読んだ。そのおかげで少しすさんでいた気持ちから、人間味がちょっとだけ出たんじゃないかという気がしています。
だから、昆虫、魚をたくさん捕って、たくさん遊ぶ。小鳥をたくさん飼う。僕が飼った小鳥は数百羽。可愛がろうと思って飼いましたが、いろんな失敗もある。それで泣いたことも何度もある。動物とじゃれたり、花を育てたりしているうちに小さい動物から命をもらうようにいろいろ教えられた。悲しみ方も喜び方も。小鳥、ヒヨコが生まれたときとかは、最高に感動する。
生まれたばかりのヒヨコは、赤むくれでべとべとしてて、毛が生えていない。なんじゃこりゃ。それが30分したらふかふかのヒヨコになる。何でこんなに可愛くなっちゃうんだ。小1のときに、何度もヒヨコが生まれてくるところを見る機会があって、大感動した。家でチャボを飼っていたからね。ヒヨコなんて僕を親と思ってついてくる。
そういう可愛さを後付けで味わうことできるんじゃないか。
岩見田の山小屋を拠点に活動をしていたとき、1人が「卵を孵す」と言って、脇に入れてた。あれは、ももがやった。
僕はチャボで随分ひなを孵した経験があったので、岩見田で、チャボをもらって飼った。でも、近親結婚になっちゃってあまりいいチャボじゃなかったので、うまく繁殖できなかった。しまいにはももちゃんが、「私孵していいですか」最初は自分であっためてたけど、卵を孵す機械を作って孵そうよって、これ随分やった。行火を入れて、かごの中に、湿度を保って。それで、ただ温めたらダメ。卵を回しながら温める。孵るのを待った。ひよこは温め始めてから21日目で生まれます。鶏とか小鳥だとだいたい21日で孵る。
フランスで有名なゆで卵は、途中まで温めたやつを茹でる。18日目くらいだと、毛が生えてる、足もできてる、嘴もできてるね。
21日だから20日に近づけるほどヒナに近い。ももとやったときは19日までいった。もうちょっとだった。孵りそうになった。とうとうひよこで出すことはできずに挫折したけどね。
みんなで鳥を飼って、みんなの子供として育てたら情緒が相当生まれるかも。
僕が体験した可愛さ、面白さ、をみんなにも体験してほしいと思っている。ほんとに面白い。
なおも、ほんとに鶏のお母さんをやった。なおは鶏に助けてもらったところがある。
やっぱり動物との心の交流があると、原始的な感情が育つと思う。
ジュウシマツの世話してて、籠が間違って開いて逃げちゃうことがある。そういうとき網でつかまえたこともあるけど、慣れてきたら籠の蓋あけて廊下に開け放ってたら自分から籠の中に帰ってくる。そういうもの。違うのは、外国系統の、インコ。逃げたら、絶対に帰って来ない。心が通じ合わない。
しゃべるのは帰ってくる。セキセイインコがしゃべるようになると、人の声とかなり近い声を出せる。コツはひなから育てること。他の小鳥と会わせない。人間と思わせちゃう。人間としか会わせない。
犬を飼うとその人のレベルがわかります。依存体質の人か、きちんと自立してるか。散歩しててもわかる。犬はオオカミの子孫、仲間なので、群れを作ると必ずボスと、びりっけの下っ端ができる。ボスには誰も逆らわない。家で飼ってる犬も、家族に順位をつけたがる。誰がボスなんだ。ボスがないなら自分がなる。お前が言うこと聞けよとばかりに、飼い主が依存体質だとイヌをボスにしちゃうことがよくある。
散歩してこうやってイヌに引っ張られるのは犬がボス。イヌが人の後ろか隣なら飼っている人間がボス。
やっぱり犬は本能的にこの人は主体性ないな、依存体質だなとわかる。摂食障害のほとんどの人はたいてい犬の下になっちゃう。犬も順番つけてる。自分より下の人の言うことは聞かない。それによって力関係がわかる。そういうことがあるから動物を飼って気持ちを戦わせたり仲良くしたり、気持ちのやりとりしてると、自分の中に情緒が育ってくるでしょうね。
鶏は計算ができない。ネコが来てひな取られて、1羽取られて3羽になっても平気でいる。1羽になっても平気。でも、1羽もヒナがいなくなると、探し回る。夢中になって。0か1かはわかる。でも1か3か5は全部一緒。馬鹿だな。計算ができない。我々も一緒かもしれないけど。
そういうことで人間味を学ぶことができるかもしれない。虫、小鳥、犬からも。
人間味を学ぶ。ということは情緒を学ぶということ。
今日おじいちゃんのところへ行った人、山の木とかほんとに植物から学ぶことも多いよね。おじいちゃんの山、良いよね。歩くのが良い。ほんとにいろんな気づきがあって。
命あるもの、植物、草含めて、命があるとなんだか知らないけどそれぞれに考えがあるような気がする。夏、山の中に入ってむっとするような草の生命力を感じた時、なんか負けそうになるよね。ちっぽけな感じ、自分が。命を感じる。
自分の人間味を感じる。うまく機会を作ろうと思えば、そういう瞬間って、いっぱいあるんだろうなというふうに思います。
(2020年1月14日掲載)
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