私はミーティングをしている中で、新たに気付いたことがあります。
私は幼いときに父親から激しく怒られたり、暴力を振るわれてきました。そのことに対して、父親の裏側に弱さを見ていて、そこをかばっていたので、そういう父親を否定できなかったのではないかと思いました。
父が怒ってくるのは、父が悲しんでいたり、父の心の痛みがあって、父も耐えられなくてふとしたときに激しい暴力に出ていると感じていて、その弱さも感じてしまっていた。
だから、私が父親を完全に否定できなかったのは、父の弱さも含めて受け入れたいと思っていたからだということに気付きました。そういう考えは合っているでしょうか。
【お父さんの答え】
あっていると思いますよ。
例えば、女性が誘拐されて、暴行を受けたという事件がありました。しかし、長期間、一緒にいて逃げ出すチャンスがあったといえばあったはずなのに、逃げ出さなかった。あとで犯人が逮捕されてから、なぜその女性は逃げなかったんだということになりました。
ところが、暴行されながらも、優しい言葉をかけたりもしていて、犯人の弱さとかわかってしまうと、かばうような気持ちも出てきたりして、そしてこれほど深く、強く自分と関わってきた人はいない、と感じたりもして、逃げそびれてしまうということがある。
世界的に知られた事件では、新聞王の金持ちの娘がギャングに誘拐されて高額な身代金を要求されたことがある。犯人は女性を暴行する動画をとって送りつけてきて、殺されたくなかったら身代金を出せ、と言ってきた。
ところが、しばらくたって、その女性が現れたとき、犯人と一緒に武装して機関銃を持って犯人と共に行動していて、世間の度肝を抜いた。
ひどい暴力を受けたにも関わらず、犯人に洗脳されて、犯人の味方をするようになってしまったというわけです。
人間って全く、客観的な動物じゃないと思います。情緒があるから、相手の弱みがわかったり、相手に同情したりすると、自分がひどい目に遭わされているのに、相手に怒りをぶつけるよりも同情する気持ちのほうが勝ってしまうことがあるのです。
最近は高齢者が騙されて送金してしまう事件も相当に多いですが、簡単に騙されるくらい、人間のメンタルは客観的に働くのがむしろ難しいのかもしれません。
特に日常的ではない激しい暴力や、暴力的な言葉を受けただけでも、普通の考えから少しずれてしまうことはよくあることだと思います。自分の精神を壊さないためにも、別の理由をつけて相手をかばうことで、相手に支配されたままになることもあります。逆らうには相手が強すぎて、自分が壊されてしまうということになるからです。
だけど、そのときには自分は壊されないけれども、それが未消化のままずっと心の中に残っていると、自分の自尊心は傷んだままなので、いずれ少しずつ時間をかけて自分の精神は壊れていき、だんだん自分を保てない大人になっていくこともあります。そして、その未消化の傷が原因になっていることになかなか自分で気付くことができません。
やはり、自尊心が傷つけられたままでは、自分らしく生きることはできないので、どこかでそのことを消化する必要があります。いまなのはなファミリーでやっている長時間のミーティングはそのことを明らかにして、その未消化の傷を消化するためのものです。
親から不当な叱責を受けたり暴力を受けたとき、親を庇って、親を責めないでいると、その時はやりすごすことができるのですが、やがて大人になるときにやはり不当に自尊心を傷つけられたことが無意識の中で許せなくなり、「許した自分対許せない自分」という二つの気持ちが見えないところで葛藤となって、過食衝動やパニックとして表面化するので、普通に生きるのが難しくなります。
そういう意味で、過去に父親に弱さをみて、父親の暴力を許してしまった、という解釈は合っていますが、そこに留まっているだけでは生きにくさは解消しないので、本当は私はそういう暴力を受けるべきではなかった、という気持ちをすっかり吐き出して、完全にその不当な仕打ちを消化する必要はある思います。
(2023年4月7日 掲載)
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