セブンブリッジなので罰ゲームをするときに、とても恥ずかしいと思ってしまいます。
罰ゲームの種類にもよるんですけど、みんなに楽しんでもらうためにも、面白くやりたいなと思っても、どうしても恥ずかしさの方が先にたってしまい、罰ゲームをするとき恥ずかしそうにやってしまいます。お父さんの罰ゲームを見ていると、とても面白いのですが、お父さんは恥ずかしさは感じていないのですか。
【お父さんの答え】
罰ゲームをするときは、すごく恥ずかしいと思っています。でも、恥ずかしがるほうが、もっと恥ずかしいと思うので、恥ずかしいと思っているようには見せません。そういう時は、恥ずかしがることはしないです。
漫才師が漫才をやっているとき、笑っているのはお客さんで、本人たちは笑いません。やっているほうが笑ってしまったら、観客は笑えない。
罰ゲームをするとき、恥ずかしがって笑いながらしていると、見ているほうはちっとも面白くないです。大人だったら、ちゃんと笑わないでやる、恥ずかしがらないでやる、というふうにすべきでしょうね。恥ずかしがるのは子供です。
それは、能動的か、受動的か、という話しでもあるんです。
よくみんなに言っているなかに、「常に能動的な気持ちでいなさい、いつも受け身でいてはいけません」ということがあります。
大勢でゲームを楽しんでいるときは、ゲームを楽しませてもらう人、つまり受け身です。
けれども、罰ゲームで最後にみんなの前に出て数人が何かを演じるとき、前に出た数人は「能動的に演じる人」になって、みんなはそれを楽しむ「受け身の人」になります。
ところが、恥ずかしさがとれない、といっている人は、「受け身の人」のまま前に出て罰ゲームを演じているので、「能動的に演じる人」になっていないのです。
形としては1人だけ注目を浴びて「演じる人」なのに、気持ちは「受け身」のままですから、中途半端な恥ずかしい薄笑いを浮かべて中途半端な演技をする、これでは見ている人はちっとも楽しくないです。
罰ゲームをすることになって、みんなの前に出た途端に、ガチャッとスイッチを「楽しませる人」に切り替えて、恥ずかしがらないで堂々と演じる、という意識が必要だと思います。
人は、「楽しむ側」と「楽しませる側」のどちらかに立っています。いつも「楽しむ側」に立っているだけではなく、本当に人生を楽しみたかったら「楽しませる側」にも立てる人になることです。
いや、むしろ摂食障害のような心に傷を負ったことのある人は特に、心はいつも「能動的」に将来の理想を追って自分を社会の中でもり立てていく側になるんだという気持ちでいないと、ストレスがあっても依存に飲み込まれない心は作れないのではないか、そう思っています。
つまり、簡単に「演じる側」に立てるようでないと、本当の回復にはなっていないですよということです。
(2023年6月8日 掲載)
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