質問
フルマラソンについて
フルマラソンを走らせてもらえてすごく楽しかったです。でも100%全力で頑張れたかと言われるとはっきり言えないです。
私の中でフルマラソンという42.195キロという距離は考えたこともない距離でまさか自分が走ることになるなんてとんでもなかったし、そんな長距離は誰もが走りきることができなくて、苦しい地獄のような旅だと思っていました。
ですが、いざ走り終えてみるとあっさりしています。走っている途中も別に苦しいと感じることがなかったです。応援してくれるみんな、地域の方々、周りの景色、周りの雰囲気を感じながら走ることで時間も距離もすぎていきました。
となりで一緒に走る74歳のおじさんと話しながら走り続ける余裕すらありました。
最後のグラウンド一周半も全力疾走というくらいダッシュすることができて、何人か追いこしたし、力が余っていた気がします。
終わった後、足がだるいなと感じたけれど、思った以上に疲れていませんでした。
練習はまじめにしていたつもりです。
積み重ねたという実感もあります。
だけど、頑張れていたのかどうか、フルマラソンがあまりにもあっさり終わってしまった気がして、自分がどうだったのかわからないです。
これは自力がついてきたから楽に走れるようになったのか、それとも力の出しおしみをしていたから楽だったのか、どちらなのでしょうか?
長い文章、読んでくださってありがとうございました。
答え
あの、なんていうのかな、大変なことをやるには、それなりの苦しみが伴うはずだって言う思い込みがあるんです。
自分にとっては、42.195キロのフルマラソンは、もの凄くたいした偉業で、とんでもないこと。それをやるには、とんでもない苦労とか、努力とか苦しみがあって然るべきって、思い込んでいたわけです。
それなのに、苦しさがあまりなくて、むしろ楽しかった。
それで、頑張ったことにならないんじゃないか、と心配になってしまったのですね。
これは大勘違いです。
この人は、なのはなの中で、トップのほうでゴールまで帰ってきています。
ジャーナリストの仕事をしていたときの経験ですが、苦しみながら、ようやく書き上げた原稿はあまり良い原稿じゃないんです。
良い原稿は、すらすら簡単に書けちゃって、しかもギャラも高いことが多い。
この人は、ちゃんと走る練習をしていました。
ちゃんと練習していたので、フルマラソンを悠々と走れるのは当たり前。
人が、自分が何かをやろうと思うとき、ちゃんとした取り組みでやっていたら、これくらい楽で楽しくて、それでみんなから「すごい」って言ってもらえる、そういうことの繰り返しなんですよね。
頑張るっていう言葉は、すごく誤解がある言葉だと思います。
この間も、「私は、頑張って楽器やって来たけれど、全然うまくならないので、才能がないと思います」って言ってきた人がいた。
そういう人が、何人も来ます。
そういうときに「どのくらい頑張った?」と聞きます。
答えはこうです。
「お父さんはどう思うか知りませんが、頑張りました。
1日おきに、必ず15分くらいはやっていたつもりです」
こういうのを聞くと、はっ? て二の句が継げなくなってしまう。
「ギターだったら、あいちゃんみたいにうまくなれないので、才能がないと思います」
これも大きな勘違いです。
あいは、ギターを練習するとき、1日に11時間くらい練習します。
練習の少ない日でも、最低でも1時間以上はギターを触っている。
でも、あいは「ギターの練習を頑張っています」とは言いません。
言うのは「まだまだ練習が足りません」。
あいにとっては、11時間やっても頑張ったってことにはならない。ギターの練習が楽しいし、苦労と思っていないのです。
ところが、決めたことだからといってやりたくない練習を15分やっていると、きついし、頑張ったって言ってしまうのです。それでいて、練習していてもうまくならない、と。
練習してるのにうまくならないと言ってくる人は、ほとんどそういう短時間しか練習しない人が多いのです。
僕は、1週間くらいの練習で、ギターを弾けるようになりました。
パソコンのブラインドタッチも1週間でできるようになりました。
物書きをしているときは、1か月で、500枚くらい書くわけですよ。
それまで手書きでしていたものをワープロ、パソコンでやるように切り替えるときでも、書くスピードを落とすわけにはいきません。練習をしている時間がないので、いきなり本番です。朝から晩まで原稿を書き続けて、それが練習ですから最初からブラインドタッチで打てるようにしました。
寝るときもキーの感触を忘れないために、布団に入っても、キーボードだけお腹に乗せて、キーを触りながら寝ました。
その結果、1週間くらいで手元をまったく見ないで打てるようになりました。
そうじゃないと仕事にならない。
頑張ったかどうかと言われると、仕事にならないので、やらざるを得ないというだけで、当たり前のことをしただけという気持ちしかありません。苦労じゃないんです。ブラインドタッチができたら、手書きよりも圧倒的に速く書けるので、楽しいのです。
手書きだと30枚で指が痛くなるし、無理して1日50枚書いたこともあったけれど、キーボードで入力するようになると50枚書いても指にタコもできないし、推敲も速くて簡単、むしろ楽しい、頑張ったなんてとても言えません。
頑張ったっていうのは、一瞬はあるけれど、ほとんどのことは興味さえ持っていれば、何でも面白くできるものです。それは、遊びだろうが、仕事だろうが同じでしょうね。
山登りする人の気が知れない、という人がいる。マラソンのスタート地点に立つ人の気が知れない、とか。苦労するのがわかっているのに、なぜやろうとするのか、と思うのでしょうね。
だけど、昨日、マラソンを走った子の話に出てきたように、74歳のおじいさんは、マラソンすることが楽しいんだよね。だから走っているわけであって、努力するためにとか、苦労するために走るのではなく、楽しいから走っている。
楽しむ人は、マラソンで楽しめる。
ありとあらゆる仕事がそうで、趣味的に楽しもうと思ったら楽しめます。
楽器の練習なんて、なおさらそうだよね。
マラソンもそうで、楽しくやることができます。頑張ったかって言うと、そんなに頑張っていない。
この質問をした人の中では、「頑張った」イコール「大変な苦労をすること」となっていて、苦労がなければ頑張ったことにならないと思い込んでいるわけです。
フルマラソンを終えたら、予定していた苦労がなかったってことでしょう。
すごいことをやったら、必ずすごい苦労がついてくる、と思わないでください。
この人は、とても頑張ったと思います。
しかも、この日だけ頑張ったじゃないんですね。今までの練習を、きちんとしてきたということです。毎日、一生懸命、文句も言わず、頑張って練習コースを走った。
そして、マラソンを走りきるのに充分な脚力がついた。
練習で走ったときも、それほど苦労と思っていなかったのでしょう。むしろ、今日はいい汗をかいた、と楽しく走ってきたのでしょう。そういうものです。
当日、頑張れたかどうか言葉はともかくとして、実力を発揮できる良いレースにできたのだと思います。
これからも、頑張ったわけではありませんといいながら、着実に積み重ねをしていって、もの凄い仕事を次々やっていくという人生にしたらどうでしょう。
楽しくやっちゃったんですけどってなるでしょうね。
頑張るというのは決して苦しむことではなく、着実に積み重ねを続けて実力をつけていくということだと思います。
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