私はいつも人に馬鹿にされてるような被害感情があります。
例えば、幼い子供に見られているような、相手にされていないように感じてしまいます。
人の中にいると常に漠然とした劣等感があります。(自己否定ではなく、自分の能力が低いことは受け入れています)
なのはなに来る前はもっと被害感情が強く、
自分が存在していることで人の輪を乱してしまう、笑ったら人を不快な気分にさせてしまう、
自分は決して人から好かれることがなく、嫌われる才能だけはあると思っていました。
なので、誕生日のコメントでみんなが言ってくれた「好き」だとか、
お父さんが仰ってくれた「大好き」という言葉も自分の中に入ってきません。
これは病気の症状だけでなく、幼少期の頃から母親によく思われていなかったということも関係していますか?
鋭いですね。まさにそうですよ。「幼少期の頃から母親によく思われていなかったということも関係していますか」まさにそれだと僕は思いますね。
この中に、お姉ちゃん、お兄ちゃん、妹、弟などの姉妹がいる人がいますね。
兄弟姉妹がいる人の場合、
「お母さんは私よりお姉ちゃんのほうが好きなんだろうな」
とか、
「お母さんは私より弟のほうが好きなんだろうな」
とか、思ってしまうことがあります。
で、時には、母親が、
「やっぱりお母さんも女だから男の子のほうが可愛いよ」
とか、
「ちっちゃい子のほうが可愛いよ」
「お母さんと、キャラクターがお姉ちゃんのほうが合うんだよね」
とか、言ってしまう人がいます。それを表情に出したり行動に表してしまうお母さんも結構います。悪い意味で正直すぎるというかね。
そうするとね、自分はあまり好かれない子供である、っていうような、非常に残念な感じを強く持ってしまいます。
子供っていうのはね、親に好かれたくてしょうがないんですよね。だれでもそうですけど。で、それがね、自分はまあ親に好かれてはいるけれども、自分よりもお母さんは弟のほうが好きだ、とかお姉ちゃんのほうが好きだと感じることはね、もう、超辛いことなんです。
で、だんだん自分を認めないというのがズドンと心の中に入っちゃうとね、自分なんか親でさえ好きじゃないんだから他の人が好きになってくれるはずがないだろうと、そういうふうに思ってしまうんですよね。
嘘でもいいんですよね。
「いやあ、お前は可愛いよ」
って、親は言ってあげたらいいんです。
あのね、ビートたけしも言ってましたけどね。ビートたけしの母親もお前だけが可愛い」って、どの兄弟にも、男の子3人か4人に、言ってたそうです。お前だけが可愛いって誰にも言ってた。
子供は最初信じてたけどね、兄弟同士で、
「いや、お母ちゃんは皆に言ってるみたいだぞ。ふざけやがって」
みたいなことがあったみたいです。
でもいいんです。「お前だけが可愛い」でいいんですよ。それぞれに言ってたらいい。
実際、子供育ててみて、どうか。
やっぱり、子供が3人いたら1位2位3位って可愛さの順番つくかって話ですよね。僕が自分の同世代に聞くと、皆「つく」って言うんですよ、順位がつく、とーー。
考えてみると僕はね、それは出来のいい子供のほうが、それは嬉しいような気もするんですけど、出来が悪いのも悪いなりに可愛いんですよ。出来が悪いから心配というか、どうでもいいというふうにならないんですよね。
可愛い順番は、つけられないなと。
それは1人ひとり、可愛いという可愛さの質が違うからなんです。量じゃなくて質が違うから較べられない。この子のこんなところが可愛い。こっちの子はこんなところが可愛い。じゃ、どっちが好きか、どっちが可愛いかというのは僕はやっぱり差はつけられないなあ……というふうに思いますね。
だけど、可愛さの順番がつくと言う親がほとんどだ、という印象はあります。
あの、あとね、人間ですから、なんか特別褒められるようなことをやれば、こいつほんっとに可愛いなと思ったり、とんでもない失敗すると、こいつ憎たらしいやつだなと思ったりね、それは日替わりで変わっていくということはありますよ。自分でもこのやろう憎たらしいなって本気で思ったりしますけど、それが長続きするかというとそうでもないし、これはほんとに可愛いなと思っても、それは前から可愛いのであって、可愛くないと思ってたのが急に可愛くなるとか、そういうわけじゃないですね。
よく思春期に入った子供は、親と話さなくなる、と聞きます。
「お父さんなんて嫌い」って口をきいてくれない子供がいるといいますが、今までよりも距離ができるというのは本当でしょうが、あるいはお父さんは臭いとか言うことあるでしょうが、話したくないとか顔見たくないとか、そこまで言うとしたら行き過ぎていますよね。
それはともかく、最初の質問に戻りますけど、統合失調症になったり鬱になったりすると、
「人から自分は嫌われてる」
という感覚はかなり強くなります。もちろん、嫌われていなくても、です。
「周りの人はみんな自分のこと嫌いだろう、好きになんかなってくれるはずないだろう」
と、現実離れした強い思いが、症状としてこみ上げてきます。
だけど現実にはどうかというとね、そんなことはないんです。
人って、他の人のことはあんまり嫌いになってないです。意外と他人に対して、関心が薄いんです。あんまり好きにもならないし、好きでも嫌いでもない。人はどうでもいいんです。
(自分は好かれてるかな、嫌われてるかな)
そのことで頭がいっぱいになってて、頭の中の95パーセントはそのこと、っていう人は気になるでしょうね。“好き”とか“嫌い”とかっていう感情を、ふつうは誰も問題にしない。そんなことはどうでもいい場面が、日常のほぼ全てだからです。
普通の人は、この人は嫌いか、好きか、なんてあんまり考えてないということですよ。どっちでもないんです。
あのね、変な話ですけどね。
若いきれいな女の人がいたとします。まあ20歳から22,3歳の可愛い、奇麗な盛りの女性がいたとします。こんな美人が世の中にいるのか、と思うような人にこう言ったとします。
「いやあ、お奇麗ですね」
もう、目の前に、立っただけで、心臓がバクバクするくらい、あんまり奇麗すぎて緊張するくらいの美人だから、
「あなたみたいな美人な人に会ったことないです」
って仮に言ったとします。するとその人がキョトンとして、
「そんなことを言われたの初めてです。あなたが初めてです」
って言う。こちらはびっくりしますよ。え、そうなの? と。
「もうあなた最高に奇麗です」
「ええほんとですか?」
私のこと、そんなふうに言ってくれた人は、あなたが初めて、と感謝される。だから、言ったもの勝ちなんです。
それでモテたんだね。
それがわかってからね、誰にでも言うようになりました。「好きです」って。
「好きです」じゃないやろ。「奇麗です」って。
そうでした。「奇麗です」って。
そういうと、相手の女性の目に星が光って、こちらのことも好きになってくれます。大学生の頃のことです。
いや、いろいろストレートにものを言うとか、相手を評価するとかは、まずいこともあるんです。あるとき、僕が同じクラスの女の子を数人、誘って、時間あいてるから喫茶店で喋って暇つぶししようかなと思ったことがありました。2,3人、誰かいないかなと思って「誰か喫茶店に一緒に行かない?」って言ったら、みんなクラブあるから空いているのがたまたま1人だけだった。いいか、お前でも、と僕は思って、喫茶店で暇つぶしに喋りました。普通に喋ったわけ。僕は子供の頃からずっとお喋り好きだったんだけどね。
それから2,3日したら、その人が僕の恋人だ、っていうことになってるわけ。
なんでかというと、その人はそんなに親しげにいっぱい喋ってくれた男の人は僕が最初だったので、僕がその人のことを好きで、恋人にしたいからこんなにいっぱい喋ったと勝手に思いこんじゃって、女友達にあの人と私、恋人同士になったと言いふらしていたんですよ。
僕は慌てて、その人にこう言いました。
「僕は君のことを恋人だと思ってないよ。ただの友達と思っている」
だって、愛の告白もしていないどころか、手もつないでいないんですから。何も思っていないよと本心を言いました。すると、翌日はクラスの女の子たちから総スカンを喰ってしまったんです。
「ひどい。恋人に向かって、友達としか思ってない、なんて。ひどいことを言う人よね」
だって、もともと恋人としてスタートしてませんよ、と言いたいのだけど、相手にあんまり親しげにおしゃべりしちゃったら、もうそれを言っても許されないようなんだね。
何を言いたいかというと、世の中の男性の多くは、それくらい喋る人が少ないし、そもそも女の子に興味を持っていないんじゃないか、他人に興味を持たない人が多い、ということが言いたいわけ。例が悪かったけど。
世の中の男は、「好きだ」とか「奇麗だね」とか、相手を褒めてない。
それどころかただのお喋りもしていない。何をしているんだ、と憤慨したくなりますよね。
お喋りしたら恋人になりたい人だと思われちゃう。だからお喋りも気をつけなきゃいけない。
反対に、恋人を作ろうと思ったら簡単です。好きです、とひとこと言えばいい。
でね、そのとき僕は思いましたよ。
僕の子供ができて、女の子でもし「男女共学の大学に行きたい」と言ったら、絶対「男女共学の大学には行くな」って言おうと思いました。
もし共学に行っちゃったら、とんでもない男に「好きだ」って言われてその気になってしまったら困るでしょう。だから、子供が生まれたら、赤ん坊のときから「好きだ、好きだ、好きだ」って耳元で囁いて、好きだ、愛してるって言って、どんな男にもなびかないようにしよう、と決心しました。
それは、後日、自分に女の子が生まれてから、実行しました。可愛い、好きだ、綺麗だ、愛してる。何度も、何度も、耳にタコができるくらい子供に言い続けました。他の人に言われても、「ああ、そんなの聞き慣れてるから、何も思いませんよ」って言うようになればいいな、と。
これはね、若干、成功しすぎたと思います。
成功しすぎました。とっくに結婚してもいい年頃なのに、まだ、独身ですから。
そう思ったくらい、「好きだ」とか「奇麗だ」とか「可愛い」とか言うのが苦手なんですよ、世の中の男の人は。どんな奇麗な女の人を見ても。つまり、周囲の人を見ていないから、好きだとか嫌いだとか、綺麗とかそうでないとか、評価もできなければ、言葉にもできない。何も思っちゃいないんですよ。
で、世の中のお父さんお母さんたちは、自分の子供を見て、ほんとに可愛いはずなのに、「可愛い、好きだ」「愛してる」「目の中に入れても痛くない。大好きだ」ってね、もう、耳にタコができるくらい、なんで言ってやらないのか、と思っちゃうんですよね。
言ってやらないもんだから、どうして言わないの?と聞けば、
「だって自分の子供だもの好きに決まってるじゃん。そんなのわかってると思ってたから、わざわざ言ってこなかったよ」
なんてこと言うんですよ。
娘のことを嫌いじゃないんですよ、好きなんですよ、だけど言葉にしないと伝わらない。
言葉にするってね、ほんとに大事なことでね。
実際にね、好きじゃない人に「好きだ」っていうのは結構難しいです、できないです。結構、喉元でウッと詰まっちゃいます。意外と嘘って言えないものですよ。だけど自分の子供は好きですよ、だいたい。可愛いですよ。それに嘘はないと思うんだね。
それが、言ってないとね。ほら、この人も「お父さんからの『大好きです』という言葉は自分の中に入ってきません」と言うけど、実際、誰がどう見ても美人な人なんですよ。客観的に見て好かれる人です。同性のみんながこの人のことを好きというのもわかるし、まあそうだろうなと思うのに、本人だけが自分が美人で好かれているということを信じられないでいる。
言われたことがないまま、ここまで来ちゃって、嫌われているという被害感情のほうが強くなってしまっているので、プラスの言葉を受け止められなくなっているんです。
惜しいな、もったいないなと思いますよ。
で、こういうときにね、どうしたら良いか。この人は、どうしたら良いか。
いつも言ってるんですけどね、この人の頭の中は、自分は嫌われてる、嫌われてる、嫌われてる……それでいっぱいなんですよ。
そういう時には、自分が周囲の人に対して、この人好き、この人好き、好き、好き、好き、大好きって思っちゃうんです、自分から好きという気持ちをいっぱい出す。
そうするとね、思いというのは映し鏡なんですよ。本当に映し鏡なんですよ。必ず同じ思いを返してもらえるんです。
映し鏡なので、ちょっと見かけた他人でも、バスで近くに座っていた人に向けて、
(きれいな人だな。好き! 好き、スキスキスキ!)
ガーンってその人に念を送っちゃうと、この人の心の中に「好き」ってパッと映るんですね。それで、その人がこちらを見たら、好き、と返してくれる。そういうことなんです。相手の心に映っちゃうんですよ。
(この人にとって、自分はどう映ってるのかな?)
と心配に思ってその人を見たら、その怪しい不審な気持ちが相手に移って、
(私、この人に財布を盗られそうだな)
って疑われる。何ていうか、怪しい人に見られちゃう。
だけども、好き好き好き好き好き、って無条件に思って見ていると、「私もあなたのこと好きよ」って返ってくるわけですよ。一緒なんです。
自分が嫌われてるかなと思う、そういう病気か症状かなと思ったら、とにかく嘘でもいいから好き好き好き好き、近くに好きな人を見つけてこの人好きだわって思っちゃうし、日記に書くし、自分が好きな人のことを書いたり考えたりする。そしたらその人から、同じくらい「好き」というのが返ってくるんですよ。
僕はね、いくら鏡でも100パーセント思いが返ってくるとは限らないでしょ? だからかなり強めに「好き!」って思います。そうすると割と普通に強い「好き」が返ってくる。
弱い「好き」だと弱い「好き」しか帰ってこない。
鏡ですからね。さっきの言ったもの勝ちじゃないけど、思ったもの勝ち。本当にそうなんですよ。
「好き」と言っちゃった人の勝ちなんですよね。
頭の中は好き好きでいっぱいですからね、自分のことなんか見えなくなりますよ。自分のことをどう見られているかなんて、そんな気持ちはどこかへ飛んじゃいますよ。
お母さんがね……
またお母さん。
お母さんが、僕の顔を見て言うんですよ。
「なんでこんな人がモテたのか信じられない」
って――ほら、顔見たら、こんなだからね(お母さんが理想とする三浦友和に程遠い)――言うんですけど。顔じゃない。自分の顔かたちを忘れて、好きと思えばいいんです。
自分の顔かたちを忘れる?
そうそう。自分は醜男だから好きと思ってもらえないだろうとか。そんなことは思わない。
お父さんは醜男と思ってなかった、最初から、自分はハンサムだ、とそう信じていたみたい。
そんなこと言うけど、お母さんは僕に会った第一印象をですね、
「ジャーナリストの人が来るというからどんな素敵な人かなと思ったら、やって来たのはピテカントロプス・エレクトスみたいな人だった」
と僕のことをほかの人に言ったんですよ。それでそのピテカントロプスを好きになってるんですからしょうがないですね。
顔かたちじゃない。そうなんですよ。
僕も自己嫌悪のときがあったはずなんだけど、なんだろうね。
自己嫌悪のときと、自信喪失のときと、自信過剰のときといろいろあってね。
そうそう、こういうことがありました。子供のときに僕は母親から言われたんです。
「『お前は大きくなってから、立派な仕事をする。ほんとに人に感謝されるような大きな仕事をする人間になる』って、願いながら産んだ」
ってね。
「だからお前はそういう人間になるよ」
って言われ続けた。母親に言われたんですけどね。そう、言われちゃうとね。
そういうふうに信じてる人を裏切ることはできないから、この人の目の黒いうちは、なんかこう、みすぼらしいことは、できないなと。せっかくそんなふうに産んでくれたのに、この人をがっかりさせたくないな。そういう気持ちになりますよね。
「やっぱり私の思った通りだった」
って母親に言わせたいなと思っちゃいますよね。
だから、“親が子供に期待をする”というのはすごく大事なことで、逆に、
(親はどうも自分に期待してないみたいだな、好きじゃないみたいだな)
と思うと、それはどのくらい子供を挫くことになるか。それは親の大きな罪ですよね。
この質問の人は、本当にみんなから好かれていて、いい性格の人だなあ、と普段からお父さんは思っている人なんです。何も変わらなくても、今現在、すでにいい性格なんです。
自分のことをそうやって、嫌われる性格と思ってるのはほんとにもったいないなと、つくづく思いますよ。みんなに好かれてることには間違いないので。
だから、あとは自分の問題で、同性の誰か1人でもいいんですよ、1人か2人でいいんです。人間としてこの人が好きだ、と思える人を「好き」って思うと、「好き」という感情がだんだん自分の中で大きく育っていく。
恋とか愛の好きじゃなくて、人間として好き、尊敬できる、でいいんです。
1人の人を、うんと好きと思う感情が育つと、今度はいろんな人を好きと思えるようになる。いろんな人に対して尊敬できるし、私もこんな人になりたいなと思えるようになります。
人って、良いところも悪いところも色々ですよ。全部好きになれなくても、悪いところは目をつぶって「この人のこういうところが好き」と思ったら、好き好きとしてしまうんです。好きと思える人が周りにいっぱいできてきたら、自分はバカにされているという被害感情はいつのまにか薄くなっていくでしょうね。
僕の特技は、いろんな人を好きになることができることかもしれません。
いろんな人を、しかも本気で好きになることができる、本気でその人を信じることができるというのは、僕の特技かもしれません。そういうのを特技にするのもいいでしょうね。
ということでちょっと回りくどくなりましたが、この質問の答えはそんなところです。
(2018年4月10日掲載)
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