人は気持ち次第で生き方が全く変わってしまうとわかった時、大きな責任があるような恐ろしさを感じました。どうして人間だけに気持ちが必要なのですか。
自分の答え:神様が人間に世の中を作るよう役割を与えたから。
どうして人間だけに気持ちが必要なのか。
考えてみると気持ちがあるのは、人間だけですね。動植物の中で、人間だけが気持ちを持っている。
人間は考える葦である。というデカルトの言葉がありますね。
考える。――自分って何だろう。
葦って、草のすすきみたいな葦ですよ。あれも生きている。人間も猫も生きている。
同じ生きているのに違いないけど、考えるところだけが、人間はほかの生き物と違う。
葦も人間も同じ生きているのには変わらないのに、違うのは考えるところ、つまり気持ちがあるということなんですね。
これは、かなり本質的な問題ですよね。
考えがあるんだけど、人間の中でも幼稚な考えというのもある。
気持ち次第で生き方が全く変わってしまう、というのもそうですね。
大きく生きるのも小さく生きるのも、大成功するのも、大失敗するのも、何もしないのもするのも、ぜんぶ自分の気持ち次第です。
どう生きても良い。
人間は、いつから何をもって生きたのかな、と思いますけど……。
この、「どうして人間だけに気持ちがあるのか、必要なのか」。
もともと人間は、今のような動物ではなくて、類人猿のようなゴリラのようなものから進化したと言われています。ゴリラは多分考えてないですね。チンパンジーも。
そこから人間になってきて、どのあたりで考えを持ったのかな。
四大文明発祥の地、というのがありますけど、そういう文明みたいなのを持つころから、気持ちが出てきたんでしょうね。
でもまだ単純で、かなり動物的なものだったんじゃないかな。
サルがボスになったり、ナンバー2になったりするのと、人間が社会の中でボスになるのと、ナンバー2になったりするのと、あんまり変わらなかったんじゃないか。
それが、人間らしい気持ちというようになったのは、宗教が出てきたころじゃないかな。
人間はどう生きたら良いのか、何を悲しんで、何を喜んだら良いのか。
本質的に考える。それが人間的な行為で、そのころから宗教を必要としたのでしょう。
あまりの悲しみから抜け出るために、宗教がどうしても必要だった。
今、西暦2018年ですが、それはキリストの生誕からの年数です。
そのころ一斉に宗教が生まれ、人間が人間らしい社会を作るようになったということでもあると思います。
最近も、だいぶ問題になっていますが、イスラム教とキリスト教とユダヤ教と根っこが同じですから、聖地も同じで、みんな自分の宗教の聖地だと言って、三つ巴がずっと続いてきていて、誰も手を触れてなかった。
それが、イスラエルの首都はメッカだとアメリカが認めると言ってから、大混乱が起きています。いずれにしても、人間が人間らしくなったのは、2000年ちょっと前頃なんでしょう。
どうして人間だけに気持ちがあるのか、って言うと、やっぱり食べるものが充分にあり、暑さ寒さを凌ぐものがある程度できてくると、考える時間ができる。
それで、暇にあかして、いろんなものを作ったり、考えたり、絵を描いていたりしているうちに、どんどん気持ちが進んでいった。
より奇麗なもの、高度なもの、美しいもの、良いもの。
どんどん人間の心が求めるようになっていって、向上心を持って、より良い生き方を求めだした時、その頃、気持ちが出てきたんじゃないか。そう思いますね。
で、動物を考えると、そんなに気持ちが長続きしないものです。
自分の子供をライオンに食われた。これが悔しいから、ライオン一族に仕返ししてやろう。ウサギの大反乱。実際、そういう風にならない。忘れちゃう。
恨みをもったり仕返しをしようとしてウサギがライオンを追っかけたりすると、結果的に、一族が全滅しちゃう。
わりと、襲われたら簡単に気絶して死ぬ。恨みもしない。家族もそれを忘れる。悲しまない。
気持ちを、動物は簡単に切る。生きる、死ぬでもそうなんです。
人間は、だんだん粘り強く考えるようになっていって、死についても考える。
それを考えたとき、より良い生き方、死に方、生活を考えたときに、これは自然の流れだったんじゃないかと思いますね。
で、日本の歴史でいうと江戸時代が300年続きましたけど、その中で町人文化が花開いた頃。政治的に300年も江戸幕府が続いて、かなり安定していました。
街の生活が安定したのは、身分制度があって、士農工商があったからでもあります。
実際に、職業選択の自由とか、住居選択の自由とか、旅行の自由とかほとんどなくて、親がやってた仕事を継ぐしか無い。
住むところも一生、同じ。限定的。
より良く生きようとしたら、一家の代々繋がる職人的な仕事を高めて、深めて、職人の頭領、親方として尊敬されようとどんどん技術を深めて行く。
競争はあるけど、技術的な競争、深める競争であって、お金を儲ける競争や、ステータスを高めたり、広い土地を求める競争ではない。
極めて文化的な競争、内面的な競争だったと言えます。
それだから江戸の町人文化は、華開いた。大きな争いは起きない。
人間はある程度、枠を狭められて、そこで考えると深まるんじゃないでしょうか。
そのころの日本の数学者で、微分積分的な考え方を独自に産み出し、世界のトップクラスの実績を残した関孝和という人も出ました。枠はある中で、考える時間があれば知的なものも発達する。
そういう中では、今のような生きづらさは、ある意味ないかもしれない。
職業選択、住むところの自由が無いのは、たとえ不自由でも、無限の中で迷うような生き辛さの不自由、悲しさはないかもしれない。
今はどこに住んでも、何を職業にしても学歴も自由。全く自由。
どう生きたら良いかが、決めにくい。
親自身も、かつては子供として成長して、こんな失敗した、できなかったことがある。だから、自分の子供にはああさせたい、こうさせたい、と子供を教育する。右も左もわからないのが子供ですから、親の言いなりになって右往左往。
こういう中で、どこに幸せがあって、誰が幸せで、今、自分は幸せなのか。それがつかみにくい。枠がない。
こういう中で、人間的な気持ちをどう持ったらいいかですよね。
対外的に、自分は幸せだ、と見栄張りたいけど、内面的に焦りがあって、ちっとも幸せじゃない。そういう人たちが集まって、社会を形成している。不安定なのが今じゃないでしょうか。
今は経済的には衣食住が満ちたりているけど、その半面、ものすごく精神的な安定に欠けた、苦しさ、悲しさが、内在化していると思います。水面下にはそれがあるけど、なかなかそれが表には見えにくい。
そういう時代に、多くの人が人知れず、苦しさを味わっているんじゃないか。
本当に自由になって、どこに住んでも、何しても良いとなった時に、人はどうしたら幸せになれるのか。
世界の特に先進国の人たちが国を上げて、今、それを探しているのではないかと思います。
僕はそういう意味で、短絡的でない永続的な人の幸せを先進的に求めて生きているのは、ノルウェーとかフィンランド、スウェーデンといった北欧の国ではないかと感じています。
日本よりも、一歩も二歩も進んでいるという感じしますね。
ただ、どの国も探している。途上国では、ひとまず貧しさから抜けて、経済的に豊かになることが幸せの目標になっているけれども。
アメリカが、アメリカ・ファーストといったり、ロシア、中国が覇権主義で、周辺の国をおびやかしたりと、世界でもまだまだ試行錯誤が続いている。
平和とか、人間の幸せを深く考えているような先進国でも、ちょっと驚くのは、フィンランドなんか、銃器の保有率が世界第4位なんです。
平和なのに、ものすごく銃器を持ってる国。それはなぜかというと、自分たちの文化、人生、資産を守るのは、先祖の努力があったから初めて実現していると自覚しているからです。
過去には、隣国のロシアから攻められた歴史があり、今も気を許せばいつ侵入してくるかわからないという危機感を持ち続けている。
言ってみたら、優しい心のアンパンマンと、戦う心のバイキンマンを常に心に持ってバランスをとっている。
だから、ロシア兵が攻めてきたら、すぐにでも戦って銃器をぶっ放す。常にそういうあり方をしている。もちろん徴兵制もあります。日本は徴兵制はありません。
日本で徴兵制をとろうと言ったら、おそらく多くの人が反対する。
人にとって何が必要か。何を考えればいいのか。
人の気持ちは、いつ、どういう時に、どう使えばいいのか。
考えるという行為そのものは抽象的なのだけれど、実際にはそういうことは、実はあまり抽象的なものではない、というふうに感じます。
人が気持ちを持つことができるのは、生活が成り立って、初めてできることです。
そこを忘れてはいけないように思う。
人は、どういう時に、誰と戦うのか、平和をどこに向かって求めるのか。
そして、自分が生きる、ということに、何を求めるのか。
自分の歓びを何に求めるのか、悲しみとか、苦しみを、自分はどう位置づけるのか。
メリハリをつけて考えるべき。日本全体としては、考える枠組みが、とても曖昧だと思う。
何か考えようとしても、枠組みが見えにくい。
考える枠組みがない時代で、上手に考えたり、気持ちを作ったりすることはとても難しい。
非常にものを考えにくい時代だと思います。
そういう中では悩みをもったとき、立ち直ろうとしても、考える手掛かりが少ないから、すごく立ち直りにくいんじゃないか、そんな気がします。
(2018年6月12日掲載)
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