自分は、小さい頃から、周囲の人のなかで浮いている感覚というのがあって、それは、学校の中だけでなく家族の中でも、誰とも合わないという感覚でした。親と話していても、すごく合わなくて、自分が怒ってしまったりとか、おばあちゃんとは、合わなすぎて、自分がずっと暴力を振るったり、口喧嘩をしていて。周りの子は全然そんなのじゃなかったし、自分が幼稚園とか小学校1年生とかからずっとそうだったと思います。
あとは、なのはなに来る前まで、自分は何かが人と違うんじゃないかという感覚が、ずっとありました。それはどうしてなんでしょうか。
それと「個性的」だといわれて、なるべくそう振る舞ってきたんですが、それも違うと思うようになって、そのあたりは親と似ているのか似ていないのか、ということも自分ではわからなくて、利己心が基盤にある個性なのだとしたら、個性的というのはどうしたらなくなるんだろう、と思いました。
【お父さんの答え】
自分が、家族の中でも浮いているという感じは、傷ついた人に共通する特徴だと思います。傷つく年頃というのは、4歳から6歳の間で、ちょうど摂食障害で傷つく発端となる傷が、それだと思っています。4歳というのは物心ついて、記憶が始まる頃なんですね。
そして「傷付く」ということをもう少し丁寧にいうと、家族がばらばらにならないでほしい、家族がもっと仲良くあってほしい、家族がまとまっていてほしい、あるいは家族の誰もが不幸にならないでほしい、幸せであってほしいという気持ちを強く持っているのに、それが叶えられそうもないことを心配して傷むこと、それが心の傷の本質だとお父さんは思っています。
そういった種類の心配を家族の誰もわかってくれない、共有してくれないというのが、家族の中で浮いた感じ、ということかなという気がするんだよね。
その感覚は、ほとんどの摂食障害の女性が持っているものと共通する感覚といってもいいんじゃないかな。個人的な感覚に思えるけど、共通する感覚なんだよね。
だから、昔からその感覚というのがあるんだけど、実は、それほど悪くはない感覚だと思うんですね。
どうして悪くない感覚かというと、それを持っているとあまり幸せにはなれない。それだけだったら困るけど、普通に生きてて幸せになれないから、幸せになりたい、幸せになるためにはどうしたらいいんだろう、と、真剣に、あるいは深刻に考えるようになるわけ。
もしも裕福な家に生まれて、自分が消費するだけで何も困らない、それに何の疑問も感じない人がいたとしたら、本当に、自分がただ、境遇に甘えて、消費する生活を変えようとしませんよね。ただ漫然と生きていくことになってしまうと思います。
ところが、その不安定な、不安な感覚、浮いたような感覚があるために、どうやって生きていったらいいんだろう、というふうに思うようになる。それは答えを見つけられたら良い生き方ができるということ。もっとも、深刻になりすぎて依存症になって抜けられなかったら、とても困るわけですが。
で、大昔の有名な小説のパターンの1つは基本がそれで成り立っていて、前にも言ったことがあるかもしれませんが、自分は本当はこの家の子供ではない、という設定で話しがスタートする。橋の下に捨てられていたのを拾われてきて、たまたまここで育てられているだけという感覚に近いのね。
そして物語が進んでいくと、本当はやんごとなき、高貴な家柄の生まれであった、やがて大きく成長したとき、その高貴な本当の家族である貴族とか、王族の使いの者が迎えに来る、という話しの展開です。傷ついた人はみんな心の底で、自分の身の上もそうであってほしいと願っているので、そういうことを願うようになる。だからその小説に思い入れを深くして読むことができる。
これはどういうことかというと、高貴な生まれでありたいと願う。高貴な生き方をしたい、世の中の役に立って、それもひときわ大きな役に立って、きれいな生き方をしたい。美しい、何ていうかな、そういう、生き方の美意識、というかな。それを高く持っているということでもあるわけです。
だから、なんとなく本当の自分の家族に対して、この人たちは志が低い人たちではないか、と思えてしまう。私はこんなところで、こんなことをしている場合ではない、ちゃんとしたポジションについて、自分の美意識にかなった生き方をしたい、と思うのです。
おそらく私はこの場所に生まれるべき人間ではなかった、とどこかで思いたい感じがしているのです。
そういう、美しい生き方というか、美意識を持って、強い、いい生き方をしたい、という願いが、このままでは叶えられないんじゃないか、という焦りはあるでしょうね。
本来の役割、本来の自分のポジションと言うか、本来の地位に戻りたい、みたいな気持ちです。そういう意識がいつも心のベースにあるんですね。
だから、貴族のような身分で、世の中をきちっと仕切っていくような仕事をしたい、立場にいたいという願いを持ち続ければ、途中は苦しいかもしれないけれど、依存に落ちないで、あきらめずに頑張っていけば、いずれ自分の美意識にかなったいい生き方ができるようになります。現実的には、依存に翻弄されちてブレーキをかけてくれる人がいないと、願いとは正反対のほうに落ちていってしまいますけどね。そこが難しいところだけどね。
そういう願いを持つ、普通とは違う感覚を持ってしまうというのは、これはアルコール依存症の人たちにも、他の依存症の人達にも共通するところだと思っています。
自分の「浮いた感じ」というのはそういうふうに捉えるといいでしょう。
で、何だっけ。もう1つ質問があったよね。
――個性的というのは親とは関係がありますか。
それは余り関係がないんじゃないかな。
個性というのは、持って生まれたものであって、後付されるものじゃない。個性的であろうとすること自体、陳腐な感じがしてしまいます。
逆に言えば、個性のない人はこの世に1人として存在しないので、あえて個性的である必要はないんです。むしろ、普遍性を備えることのほうがよほど難しい。そして、普遍性を備えたいと願うべきだと思います。いってみれば、なるべく普通でありたいと願うのが当たり前のことだと思うんです。
そうしていても、どうしても普通になりきれないところが個性だと思います。
で、何をもって個性というかというと、究極のところ、個性というのは人生観の表れだと思います。だから、あまりにも変わった人生観を持ったら、世間から外れた人になってしまうんじゃないのかな。僕はそう思いますね。
繰り返しますが、どちらかというと、当たり前の、余り個性的じゃない、普遍性を持った考え方をしっかり持っているということのほうが、よほど大事です。
個性的である前に。普遍的であるべきです。どこへ行っても通用するような良識を備えている、あるいはどこに行っても通用するセンスを備えていることのほうがよっぽど大事で、個性は、振り返ったら自分のあとからついてきたくらいのレベルでいいんじゃないかと思いますね。少なくとも、目の前に個性的であること、というのを目標にして追いかけるものじゃない。
個性的というのは必ずしも褒め言葉じゃないですよ。ちょっと変わった人だな、と思っても「あなた、変わってますね」と言ったら失礼になるから、「個性的ですね」ということはあるかもしれない。なるべく変わった人にならないほうがいい。
――自分はこれから、普遍的な人になろうという気持ちでずっと続けていったら、変な個性はなくなると思ったらいいですか。
うん。でもだいぶ普通の人になってきているよ。◎◎ちゃん。今はかなり普通っぽいです。大丈夫。
(2021年4月29日掲載)
Copyright © なのはなファミリー 2025 | WordPress Theme by MH Themes