夜の集合での話を聞いていて、能動的か受動的かで言えば、常に能動的なスタンスで生きていかなければならない、ということだったと思います。
また、そのときの、「誰のためにやるのか考える」という話を聞いて、私は、「誰のために」というときの対象が近すぎて、いつも、「自分を評価してくれる人のために」というふうになっていると思います。
野菜づくりの作業をしているときでも、それを食べる人のためにというのではなく、その作業のリーダーから評価されるように、となってしまいます。どうしてなのでしょうか。
【お父さんの答え】
それは能動的にしているというよりも、自分を評価してくれる人に対してやっているということで、自分の評価を気にしているということですね。それは受身だと思います。決して能動的ではなくて、評価されるためにしているということで、そのリーダーのためにしているわけでもない。
「能動的に」というときは、自分の評価と関係のないところでの能動的ということでないと、意味がないです。
野菜作りだとすると、その作業中は自分が手入れをしている作物を、誰が食べるのかはその時点ではわかりません。それでも、食べた人が美味しいと言ってくれるようなものにしよう、そのための気配りを精一杯にして、労力を惜しまずに美味しくするためにできることは全部しよう、という姿勢を持つということです。誰が食べるかわからないので、食べる人からの評価は期待できないです。それでも、食べた人が喜んでくれることは確かです。
そういうことにやりがいを感じる気持ちが大事だということです。
喜ばせるのはその場にいる作業のリーダーではなくて、その作業のずっと先にいる人です。
それが見えない人というか、そんな先の人をイメージできない人は、損得感情が強過ぎるということがいえるかもしれません。
あまりに厳し過ぎる母親に育てられた子は、ともすると目の前の評価をする人ばかり気になって遠い先の人を見ることができなくなってしまうということもあるでしょうね。そうなると、どこまでも作業のリーダーを喜ばせようというところしか見えなくなってしまいます。
評価する人のために頑張るっていうのは、母親のために頑張る子供と一緒ですかね。それは、本当の頑張りにならないし、能動的に生きるというのとは程遠いことだと思います。
(2023年6月2日 掲載)
Copyright © なのはなファミリー 2025 | WordPress Theme by MH Themes