母の日の夜、みんなからお母さんに向けての母の日の会がありました。
第81回の「お父さんにきいてみよう」は番外編で、会の中の、お母さんへの質問コーナーであった話しを2つ、お届けします。
【質問1】
お母さんがお父さんの料理で一番好きな料理はなんですか?
うん、本当に色々あってね。お父さんの作る中華料理は絶品だね。イカとセロリの炒めものがおいしい。それがまあ、お父さんの作る中華料理のなかでお母さんは大好きなんだけど。
なるほどね。イカとセロリの炒めもの、お母さん好きだよね。
それと、なめろ。サンマで作る料理。
知ってる? 生のまま、包丁でこまかく叩いて、ぐちゃぐちゃみたいにして。
細かくみじん切り、だね。
そうね、ぐちゃぐちゃっていう表現したら駄目だよね。ちゃんときれいに切れてないといけないからね。ほんとうに、ぐじゃぐじゃで潰してしまったら駄目なの。
すり身のようにしないで、微妙な歯ごたえを残すところとかっていうのをお父さんは繊細に作るんだよね。だからみんなにも食べさしてあげたいんだけど、いっぺんにドバッと作れるものじゃなくて、そのなめろをご飯にかけるのが美味しい。お茶碗になめろを盛りつけて、なめろ丼のようにしてから、その上に熱湯をかける。そしてお皿でフタをして、ひっくりかえしてお湯を捨てる。そこに唐辛子をかけて、醤油をさっとたらして食べるんだよね。
それをサンマで作るんだけど、刺身になるようなサンマじゃないとやれないので、なかなか多勢の分を一度に作るのは難しい。
まだある。
料理って言わないかもしれないけれど、なんだっけ……パイナップルのような。
ホヤ。
そう。ホヤが、一番好きなの。
ホヤ料理できる人って、多分、石生じゅう、岡山でもいない……。岡山には、いないよね、絶対に。ホヤって知らない人が多いから。
西日本にホヤは無いからね。宮城県でたくさん獲りますけどね。
ホヤを料理して――あれは料理じゃないよね、ただ切るだけだよね。
まあ料理ですよ。
酢につけるんだけど、ものすごい美味しいから――お母さんそんなこと言ってたな、といって1回みんな、食べてみて、東日本方面に行ったとき。食べさせてあげようと思っても、ここじゃ手に入らない。東京へ行ったって食べたいなと思ってもなかなか手に入らない、魚屋さんなら余程、大きな店に行かないと。ホヤって覚えておいて、1回食べてください。
そこまで言ったら大げさ? ほげほげ食べられる人もいるかもしれない。(編集者注・ほげほげとは、お父さんが時々使う大洗方面の訛で、たくさん、という意味)
海のパイナップルといわれていますね。色、こりこりとした食感、爽やかな感じから。
でも、いま食べたら、美味しいのかな、好きなのかなっていうのは、ちょっと疑問……。パイナップル好きだから好きかなと思うんですけど。
あの……、死んでしまいたいくらい悲しいときに食べたら、気持ちとすうーっとマッチする味です。
あ、死んでしまいたい、とはみんなはもうならないだろうけど、悲しい時に食べて美味しいものがあるんだな、と初めて食べたときにとても感動しました。
要は自分の気持ちとそのとき出された料理が一致すると、すごく美味しく感じるんです。
今でも覚えてますけどね、たまたまお母さんがちょっとつらいことがあるかなというときに、どんな慰めの言葉より、どんな励ましの言葉より、ホヤを食べさせたいと思ったんです。
どうして私の気持ちをこの食べ物は知ってるの、っていうくらい。まさにその気持ちを掬い上げる味だろうと。それがはまっているほど美味しく感じるんですよね。
ホヤの苦さ……、悲しさを思わせる苦さ。そして、酸っぱさ。
深い悲しみに含まれる、誰にもわかってもらえないような、どこにもないような感覚というのを、ホヤの苦さと酸っぱさがうまく表現してくれている。
思い切り酸っぱくて、思い切り苦くて、それでさっぱりしてる。
ああ、もうこれでいいや、みたいにね、そう思わせてくれる味ということです。
あの、辛いときとかしんどいときってあまり理屈が入ってこないじゃない。いろんなこと言われたって、なんか頭に入ってこないし、何だかって思うんだけど、そんなときこれ食べて、食べてって出されて、ホヤを食べたとき、あ、もういっか、って思って。
なんかね、今でも涙出てきそうになっちゃうよ、その味を思い出したらね。
そのとき、お母さんはおいしい、おいしいって食べていた。
食べ物が、気持ちを前向きに切り替えてくれるってことあるんですよね。
お母さんはホヤがかなり気に入ったようで、驚いたことがあります。
随分前のことですが、あるとき東京のデパート地下の食品売り場に入った瞬間、
「……ホヤがある!」
ってお母さんがいう。鼻を上に向けて、クンクンさせて、「ホヤが匂う、お父さん買って買って」って急かすんです。
走るようにして、匂いの元のほうに急いでいったら、生鮮さかな売り場で、まさにホヤを切ったところだったんですよ。
「ちょっと待って! そのホヤ、ください!!」
その魚売り場の人は手を止めて、「ああ、いいの知ってるね。これ天然ホヤで特に香りが強くておいしいんだけど、もう店閉めるのに、もったいないから自分たちで食べちゃおうと、いま1つめに包丁を入れたところだったんだ」
「それも含めて、残ってるの、全部、売ってください」
残ってたやつ全部ね。天然物はやっぱり香りが良いですよ、香りがよく飛ぶ。うまいですよ。これを丼いっぱいくらい食べたら、気が済みますよ。いろんな悲しみ、いろんな苦しみ、がね。
もうこれで気が済んだ、って感じになりますね。
で、僕は思うんだけど、僕が料理がうまいとお母さんに言われるのは、もしかしたらお母さんの気持ちをわかってその時々、気持ちに合う料理を作る、っていうことができたからかもしれないね、自分で言うのもなんですけどそう思いますね。
料理と気持ちって、ほんとに一致すると美味しく感じます。
多分、それでお父さんに惚れたんでしょうね。
理屈っぽいしね、会ったときは、前にみんなにも言ったけど、ピテカントロプス・エレクトスかと思ったんだよね。この人、北京原人かな、ぐらいに思っていたからね、
そうだね、ホヤを作ってもらって惚れたかもしれないね。
……です。はい。
【質問2】
お父さんの母親が水戸のおばあちゃんですが、お母さんのなかで、水戸のおばあちゃんとの心に残っているエピソードは?
うん。この中では水戸のおばあちゃんと会ったことがない人も多いかもね……。亡くなったのは2015年だったっけ?
そうかな。
15年の11月に亡くなったんだよね。
それまで、なのはなファミリーを岩見田に設立した2004年から、おばあちゃんがずっと毎月のように来てくれていた。
で、その頃はお父さんはまだ物書きの仕事をしていたので、1週間に1回、東京へアンカーの仕事で行かなきゃいけないことがあって。出張がすっごく多かったんだよね。そのときにおばあちゃんが、ずっと来てくれていて。それから、本当におばあちゃんがみんなに裁縫を教えてくれたり。おばあちゃんは和裁も洋裁もできるからね。
みんなにつくってもらったパッチワークもおばあちゃんが大きなタペストリーに縫い合わせてくれたりした。なのはなファミリーがイベント出演やコンサートで使っているパッチワークの横断幕も、あれもおばあちゃんが作ってくれたんだよね。
だから、ほんとにおばあちゃんには助かったなと思って。
お母さんは父さんと一緒になって、――ああ、みんなもお嫁に行った先のお母さんに大事にしてもらえるという可能性があるんだよね、と思ったの。
水戸のおばあちゃんに大事にしてもらって、本当にすごくお母さんは嬉しくって、で、おばあちゃんは、お母さんのことをやっぱりすごく認めてくれていたのね。
お母さんの良さは、何ができようがなにができまいが、お父さんを助ける人だというふうにお母さんを認めてくれて、応援してくれたっていうか。
それで、こんなこと言ったらいけないけど、おばあちゃんは、お父さんにお母さんが絶対必要な人だろうというのを、直感でわかってくれてた、って思う。
そういう安心感がすごくあって、お母さんはおばあちゃんになんの気を遣わなくても――嫁姑とかっていう問題とかそういうのはなくて、ずっと助けてもらってきたなと思っています。
で、エピソードっていえば、あの、やっぱり一番は、岩見田が始まったときに、ハートピーの障害の訓練指導のもう一つの仕事で、イギリスへ行かないといけないというときがあった。ハートピーの訓練ノウハウの元になったイギリスの団体があって、その理事会に招待されて、その頃は日本のハートピーも重要なメンバーということで関係が深かったからね、歴史の古いシャトーで開かれる理事会に、お父さんとお母さんが出席しなければならなくなったのね。
で、せっかくだから日本らしい着物を着ていかないといけないなって思って。
それで一応、着物を正式に着て持っていかないといけないなと思ったとき、「着られるかなあ、1人で……」と心配だった。まあ、おばあちゃんに教えてもらったらいいやって思った。
でも、お母さんは焦りがあったというか、おばあちゃんに着付けを教えてもらっても頭に入らなくて。これは困ったなあって思ってたら、おばあちゃんが、お母さんのプライド傷つけることなく、すぐ、お父さんに向かって「ケン坊、お前が習え」って言って。
おばあちゃんは、お父さんにお母さんの着付けを教えた。
そこでもし、おばあちゃんじゃなかったりとかしたら、「ああ着物も着られない嫁なのか」って思われるとか、なんかわかんないけど、すごい自分は焦ったんじゃないかなって思うんだけど。そういう焦りをまったくさせなくって。
スッと、「お前が覚えな」ってお父さんに言った。「教えてあげるから」って言って。
それで、お父さんがおばあちゃんに着付けを習った。それでお母さんは、着物を持って向こうに行って、お父さんに着付けてもらったの。
もちろん着るのは着るんですけど、帯とかはね、やってもらわないと……。まあお太鼓だから成人式のような帯ではないのですけど、それでも、奇麗に着付けてもらって。
……そうだったよねえ。
すごく歓んでもらいました、イギリス人の人たちにね。
ホテルで着付けたんだけど、僕は一発勝負だろうなと覚悟はしていた。何回も着付けの直しはできない。ぐちゃぐちゃになってきちゃうからね。
大体、覚えたろうなと思ってイギリスに行ってみたら、ほんとに覚えててね、きっちり着付けることができてね。
今思うと、あのときは通訳もなにもなしで、日本人は僕とお母さんだけだったので、よく行ったな、それでよく理事会で会議してきたなと思いますけどね。
みんなにも話したけど、お父さんが締め切りを2つ持っていて。イギリス行く日の朝まで原稿を書いていて、それで一睡もせず行ったの。お母さんは、あ、もう飛行機乗り遅れたと思ったくらい、原稿の完成が遅れて出発時間がギリギリだった。
電車1本乗り遅れたらアウトだった。
東京から行ったんですけど、電車に1本乗り遅れたら、飛行機に間に合わなかった。
――ここがドアとするとね、こうやってバッて乗ったんだよね。ダダダダッ、シュパ!
それに乗り遅れてたら飛行機に乗り遅れてたっていうヒヤヒヤもの、だったよね。そこまで別に要らない話だけど。
ボストンバッグに着物を入れてね。
入れて。それで、おばあちゃんにほんとに感謝、感謝、でしたね。
本当におばあちゃんがいなかったら、着物を持っていくことはできなかったと思う。
ぼくらが出席した理事会の団体は今、英国王室の1人が名誉理事長になっている、イギリスでも有名な団体になってます。
(2018年5月18日掲載)
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