*質問*
なのはなファミリーで日記を書くことの重要性について今一度教えて頂けると嬉しいです。
*答え*
あの、僕のお薦め本の中に『青春を山に賭けて』という、植村直己っていう人の本がありますね。
植村直己は冒険家です。
冒険家っていう、職業といっていいのか、生き方っていうのか、どこでどう、何をお金にしているか、ちょっとわかりにくいですよね。
冒険をするには物凄い金がかかります。南極横断だったら、2億くらいはかかるでしょうね。(本当はいくらかわかりません)なにしろ、億単位でかかることは違いない。
使うのは、自分の身体と犬ぞり。犬ぞりがロールスロイス仕様で1億円。そんなことはないです。犬ぞりそのものは、板んこで作って、鉄板貼るだけです。
道具ではなくて、いろんなコストがかかるんですね。
それをどうやって返すか。
出資者は、例えば文藝春秋社だったりするわけですね。
あるいは他の企業スポンサーだったりする。他のスポンサーにしても出版社の文藝春秋にしても、植村直己がその冒険から帰って来て、冒険記を本にして出版して、それがものすごく売れると儲かる。
だから、そのネタを仕入れるための冒険でもあるわけです。1億円の資金を出してやるから、その代わり帰って来たらうちに本を書いてくださいよ、という約束で1億を出すわけですね。
そして必ず1冊か2冊、その約束のもとに冒険記を書かなければならない。
それで、植村直己はこんなことを言っていました。
「何が辛いって、日記を書くことが一番辛い」
冒険と日記って関係ないんですよね。
冬山のものすごく寒い、マイナス四十何度の時に、暖房も無い、テントの中でちっちゃいランプを点けて、「今日は寒い」「今日は登頂しようとしたけど手がかじかんで断念した」とか、書かなきゃいけない。
そんなもの書かずに、熱いものを飲んで眠りたいけど、「今日はいいか」って寝ちゃうと、次の日も、今日はいいや、覚えておこう、明日書こうってなる。それやっちゃうと永遠に日記を書けなくなってしまいます。
冒険から帰って来て、本書いてって言われて、書こうとすると、何したっけかな、いつだったっけ、あれはーー。日記がないと、なかなか思い出せない。
そういうことで、冒険記が書けない。
冒険談が書けなければ、借金も返せない。
だから、そういう日記は、書かないと困るでしょ。
それで、なのはなファミリーは、マイナス45度とかじゃないし。暑さはそりゃ35度にはなりますよ。だけど55度じゃないしね。まあ、日記くらい書けるんじゃないですか。
へろへろに、とろけそうなくらい疲れてしまうわけではないんだから。
日記ぐらい書いて、自分が今日、何をしたか、何を感じたか、を言葉にする。
そうするとね、はっきりと、自分を知ることができるんです。
あの、誰でも夢は見ます。
てんかんの人で、右脳と左脳、脳梁離断術をした人がいます。発作を小さくするために昔、やってました。
だいたい、てんかんの発作は頭の左から出発して、ババって頭全体を雷のように走っていきます。すると、ひっくり返ったり、幻聴、幻を見たり、頭が痛くなったりして、気を失ったりします。
あまりひどいてんかんで泡を吹いてひっくり返るようだと、それは危ないので、その対策として脳梁をすぱっと切る手術を昔はやっていたんです。
すると、頭の片方でばっと発作が起きても、脳梁が切れていると発作がそこで止まり、てんかんは片方の脳だけで踏み止まる。今はその手術はしなくなりましたけどね。
そういう、脳梁を切り離す離断術を受けた人は、夢を見ないんです。
夢っていうのは、だいたい右脳から出発する映像なんですね。
ところが、映像で夢を見てても脳梁を切っている人は、夢を忘れちゃう。
なぜかというと、言葉にして初めて、人間は記憶するんです。
右で、映像で見た絵が脳梁を伝って左脳に行って、言葉にして覚えておく。
その映像が、素敵な男性と恋をして、一緒にピクニックに行って、私のつくったサンドイッチを彼に食べてもらうというものだったとします。すると、目覚めたときにもそれを覚えてて、あ、今の夢の続き見なきゃ、みたいなことになる。
ところが、せっかくそういう良い夢を見ても、言葉にしていないと、あら? いま見ていたのは何の夢かしら? ということになって忘れてしまう。
もしかしたら、崖崩れ畑で、トウモロコシを食べに来るアナグマを捕った夢だったかな、なんてことになる。
ほんとにね、脳梁を切り離して映像が左脳に行かない人は、夢を覚えていないんです。
これは本当の話なんですけどね。
要は、人間って、何でも言葉にして覚えてるんですね。
ところが、みんなの言葉の語彙能力、貧弱ですよ。
だいたい、夕飯食べる時、話を回してると、みんな同じになっちゃうでしょ。
なんか違うこと言えないかと思う。
たとえば、桃を食べた。その感想を言ってもらうと、
「おいしかったです」
「甘かったです」
それ以上、何も出ない。
それだと、あとで20年くらい経って思い出した時、なのはなで食べた桃、おいしかったなあ。甘かったなあ。それでしか、ないですよ。「おいしかった」しかない。
もうちょっと違う言葉で自分なりに表現して、何とかのような味、どんな甘さ、どんなおいしさか、それを具体的な言葉にしておくと、その言葉を記憶しているので、詳しく思い出すことができるのです。
そうしたら、20年経ったときでも、同じ甘さでもこんな甘さだった、と覚えてることになるんです。
言葉がないと「おいしかった」だけになってしまうのです。
言葉って、すごく大事なんです。
だから、今日、体験したことを、自分なりの言葉で日記に書いておくのです。
今日、書いた日記を頭から読み返してみるといいです。
へえ、なるほどね、こんなこと書いてたんだ。自分はこんなことをしていたんだ、って思いますよ。「へえ」って何でなるか。
書いているそばから、意外と忘れてるんです。
書き終わるころには、たいてい最初に書いたことは忘れてるんです。
最初から読み返すと「へえ」ってなるんです、だいたい。
自分の体験を、より自分のものにする為に自分の言葉にしておく。
それが日記の意味です。
自分の体験を、確かに自分のものにするために、自分の言葉で記録しておくと、例えその日記を読み返さなくても、1回言葉にしているのでその自分の言葉でリアルに思い出すことができる。自分の体験にしっかり蓄積していける。そういうことです。
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