質問
3日前に、久しぶりに畑に出て作業をしました。
午前中だけだったけれど、疲れてしまいました。
私は、疲れた日の夜は、なのはなに来る前、学生だった頃の疲れや、家にいた頃、疲れても誰にも助けてもらえない辛さが再現されるようで、辛くなってしまいます。顔が熱くなって、足が重くなって、悲しくなってきます。
休もうと思ってベッドに入っても、何かに気持ちを逃がさないといられなくなって、(テレビやチョコレートや音楽など)それをじっと耐えるのが辛いです。
疲れた日の夜は、どうしたらいいですか?
それから、一度そうなってしまうと、疲れるのが怖くて何をするのも力を出したくなくなってしまいます。
もう、当分畑には出たくないと思ってしまいます。
そういう辛い日があってからは、どう気持ちを立て直したらいいですか? 教えてもらえると嬉しいです。
答え
傷ついた人はみんな、疲れるのが怖いです。
めいっぱい動くのが怖い。仕事にしてもそう。運動にも同じ怖さが伴います。
この質問は、なのはなに来る前の学生だったときの疲れの怖さが再現されるようで、辛くなってしまうということですね。
厳密にいうと、この疲れるのが怖いという人は、疲れ切ってはいないんですね。疲れ切った状態を体験したことがなくて、怖がっているのです。
「疲れると怖い」というのは、本当にエネルギーが全く残らなくなったときが怖いということ、それは自分が疲れて危険になったときに、自分の身が守れないという怖さなんですね。
これはどこから来るかというと、4歳から6歳のころの恐怖感がもとになっている怖さなのです。4、5歳くらいのときに、父親がいなくなってしまうかもしれない、あるいは母親がいなくなってしまうかもしれない。両方がいなくなってしまうかもしれないという怖さというか、大きな不安を体験しているんです。
この怖さはかなり強烈です。それを相談する人も誰もいなかった。それは、自分の生存を脅かされるような恐怖。死んでしまうかもしれないという恐怖だったのです。
今このなかにいる人には「もう死んだっていい」と思った経験がある人が多いです。でも、5歳 6歳のときは、そうは思えない。10歳くらいだったら思えるけど。
死にたくないのに誰も助けてくれないかもしれないという恐怖。ものすごく根が深くて怖い。それが摂食障害のもとにもなっているわけです。
その怖さっていうのが、疲れる怖さとイコールなんですね。この中でも疲れるのが怖くて、力の出し惜しみをする人、何人もいます。
仕事をして、「あー、疲れた」って言って、身体を布団に投げ出して、あるいは身体を地面に投げ出して、ってそれくらいまで疲れるのが結構、難しい。一度その難しさを超えて、本当に疲れたってなると、結構、疲れても、ちょっと休んで復活したらまだ大丈夫じゃないのってなるのですが、そこまでいかない。
限界まで疲れることをやっていると、怖さが段々なくなっていきます。
もちろん、精神的な怖さが取れた上でやらないといけませんけどね。
今、陸上で100メートル走で、ばかっ速い人が出てきましたね。
100メートル10秒01。これは18歳で作った世界記録だそうです。
9秒5とか出している人も、18歳のときは9秒台出していない。10秒01の人は、いずれ間違いなく9秒5ぐらいいくでしょうね。それはどうしてかっていうと、今から身体が成長します。筋力、体力も成長していって、走るうまさも身に付く。だからもっと記録は伸びるんですね。
100メートル10秒01。この間、もちろん息は1回もしていません。呼吸していません。400メートル走る間も、一回も呼吸しないんです。呼吸をすると遅くなるから。そういうふうに、限界まで攻めて、もうこれ以上できないっていうところまでやって、記録は伸びていくのです。
スタートをこうしようかなとか、もう一回限界まで、攻めて、攻めていく。
そうすると、これ以上はできないっていう筋力とかスピードが、やがてまた伸びて、それをまた限界までやっていると、伸びて、伸びて……って、どんどん成長していく。
僕ぐらいの歳になると、もう伸びないと思うでしょ、間違いです。これから、折りみて、筋トレしていこうと思っています。どんどん筋力はつくし、バストまわりも太くなっていきます。でも、しなければつきません。ただ、若い時とは、筋肉の付く速さや、疲労の取れ方が全然違うでしょうけどね。
体力とか持久力というのは、かなり相対的なものなのです。
この人と、この人の疲れ、というのが全然ちがう。鍛え方で違ってくるのです。
毎日、毎日、働いて、力仕事をしていたら、これだけの若さだったら、半年したら、大逆転どころかまるで変わってしまいます。最初はこのぐらいの仕事をしていてあぁ疲れたっていうのが、半年くらいしていたら、全然、平気だってなります。
怖さがある人は、それが信じられない。自分がこのぐらいが限界だとおもったら、限界のはるか手前までしかやらない。そうすると、体力がそれ以上伸びることないんですよ。
色んなことがそうです。勉強もそうです。ここでの、お掃除もそうです、楽器の演奏も人によって、ものすごくうまく出来る人がこのぐらい。このぐらいのレベルの人もいる。自分がこのぐらいだと、中の上、上の下だとなる。
そしたらそのことに関して、もう努力をやめてしまう。このなのはなファミリーの中でいい線いっているだろう。お父さんからも評価されるだろう。そう思ってそれ以上の努力をしなくなると、実際にはお父さんから評価されません。
何でか。それは評価しないんですね。
ギターを例にとります。このぐらいまですぐできる。ここではうまいほうだろうと思って練習をやめる。違うんだよね。人によって器用、不器用があります。
その人にはギターは難しいだろうなって思っていたら、不器用な人が限界まで練習してやっとなんとかというレベルまでいった、そうなると評価します。
その人はいつか、自分が器用だと思って練習していない人を、ひゅっと追い越すでしょうね。スポーツでもそうですね。畑作業でもそうです。
本当は能力があって、効率のいい仕事ができるのに、みんなに合わせてこのぐらいしかやらない。それは、評価できない。頑張ってここまでやっている人。必ず良い仕事ができるようになります。必ず伸びる。だから限界近くまでやっているという人は、不器用だろうが、いまは下手だろうが、評価できるのです。
おかしなもので、今なのはなファミリーでアコースティックギターを習っている人が19人まで増えました。それはエレキギターやっていたあいちゃんが、アコギ教室に入った影響だと思います。
ここに一群の友達仲間がいる。あるグループの中に1人、ギターの上手い人がいる。するとそのグループの人はみんなが上手くなる。こっちのグループには上手い人が1人もいない。するとこっちのグループはみんな下手な人ばかりになってしまいます。上手いグループに入ると、習い始めたばかりの人も、上手い人のすぐ下のレベルまであっという間に行くんです。
ギターはそういうところがある。あいちゃんがアコギに入ってから、全員のレベルがグンと上がり、それを見て、習いたいという人がたくさん増えた。それで19人なんです。
あいちゃんが入る前、じゃあちょっと曲を完成したので聴いてもらいましょうってなると、必ず全員が譜面台と睨めっこしていた。今は、譜面台見ない人が何人もいる。見ているひとも、ときどき見るだけで、スムーズに弾いている。うまいな、いいな、こんなふうになれるなら私も入ろうって、どんどん入っていく。そういうものなんです。
ただね、体力のことに関しては、自分の力を出し切るのに、ブレーキがかかる。疲れてしまう、疲れてしまったら怖いっていうのは幻想なんですよね。それでも本能的にブレーキをかけてしまう。めちゃくちゃ疲れきっても心臓はとまらないし、身体に異常事態は起こらないのです。でも、そう思えない。
自分の体力のピークが近づくと、怖さが先にたって、身体を使わせないのです。
疲れてくたくたになれば、本当に気持ちがいい。
つい2日前くらいに、三浦雄一郎っていうプロのスキーヤーが、エベレストの登頂に成功しました。70歳のときと75歳のときも登頂している。
今度、80歳で最高齢の登頂記録を作りました。エベレストの山登り、疲れるなんてもんじゃない。最高齢でエベレストに登るって決めてから、スキーの事故で全治6か月の重傷を負いました。でも、本人はあきらめなくて、6か月後からリハビリを始めました。
そのほかに、心臓で不整脈が見つかった。心臓手術を2回受けています。2回もです。
普通だったら、諦めますよね。体力も落ちているし、80歳で心臓手術ですからもう無理だろうと思うはずです。でもあきらめずに、体力を回復させて登った。
これは疲れるかどうかというよりも、死んでしまうかもしれないというレベルかもしれません。何で登ったか。気持ちいいんですね。体力を使いきったあとの気持ちよさ。
やっぱり自分の限界まで出し切って、ああ疲れたって言う心地よさ。疲れ切った人じゃないと分からないものがあるんじゃないかなって思います。
僕はときどき、何人かに、疲れるのが怖いっていう相談をうけます。作業での動き方を見ていて、相談をうけなくても、疲れるのが嫌なんだなって見える人が何人もいます。
それは勘違いですから、どこかで1回、ブレイクスルーして、思い切って、とことん疲れ切ってしまってはどうかと思います。それで、疲れてもなんともないんだっていうのを経験してみたらいいと思いますね。1日、やってみたらいい。
翌朝、ぐっすり眠れてあぁ気持ちよかったってなるんです。
昨日、お母さんに、トマトの支柱にかぶせたビニール全部とったよって言ったら、お母さん「えーっ」て驚いた。あんだけみんな使ってやったのに、全部とったの、何でって。
あそこは無理だった、どんな頑丈につくっても、風が強い場所だったから、竹の支柱にビニールじゃ無理なところだったんだと話した。
そのとき「大丈夫かな」ってお母さんが言う。何が大丈夫かって、一昨日ね、みんながあれだけ一生懸命作ってくれて、たくさん手間もかけて、ビニールかけて紐でくくったり、さんざん苦労してやって、たった一晩だけで取ったら、私のやった苦労はどうなるのっていう気持ちで、みんな落ちているんじゃないって、それ心配していたよ。
みんな淡々と動いてくれていたし、外したあとも、みんな元気で気持ちを落とすようなこともなかったと思うけどなって言いました。
ゆうべ書いた日記を見たら、1人がそのことを書いていました。なるほどなって思いました。
あれを外すことになって、大変なことになったと思った。これはお父さんが怒っているんじゃないかって。
日記は、お父さんが怒ったんじゃないか、不機嫌になったんじゃないかと思って私は心配でした、ところがお父さんは鼻歌を歌っていました、という内容でした。
僕はいつも全然覚えがないんですけど、機嫌がいいとき鼻歌をうたうんだよね。
お父さんが機嫌がいいので安心しました。そんな風なニュアンスで書いていて、何が言いたいかっていうと、自分が一生懸命に作っていたものを、取ることになって、何を思ったかということです。
自分がやったのに無駄になったって、怒るわけじゃないんです。風でバタバタになったのを外すことになって、自分の嫌さ加減を不満に思うんじゃないんです。
お父さんと農産担当のみかちゃんは、自分よりも、もっと辛いだろうなと、もっと苛々するだろうし、悲しいだろうなって、もっと傷ついたんじゃないかなって、思ってくれたのです。
それが思いの外、総責任者であるお父さんが、がっかりしていない。しょうがないなって。むしろ鼻歌交じりでやっていて、ほっとした。今年は屋根なしでも作ってみようと、ビニールの屋根を取ることも簡単に諦めることができてよかった。そういう風に思ってくれるんですね。
これは5、6歳の親に対する心遣いと一緒なんです。親が悲しんでないかとか、怒ってないかとか、そいういうことを子供はずっと気にしている。
疲れって言うのも、それと、ものすごい深い関係がある。疲れているときに誰かに怒られると致命的。疲れきっているのに、誰かが怒っていると致命的です。疲れがとれない。精神的な疲れは、体力によって違います。疲れの感じ方とか、精神的な状況とか、過去のこととかで違う。
自分は安心して、元気にまた出発できるっていう思いがある人は。同じ疲れでも、ひゅっと簡単にとれる、かたや、この疲れがどのくらい重く残るんだろうかっていうときは疲れがとれない。
ボクサーが試合を戦い、12回で判定になったとします、どっちが負けてもわからないくらい僅差だったとします。ダメージは双方とも同じ。
勝負のついた翌朝、勝ったほうの選手は、元気いっぱいに走り回れる。負けたほうは、一日中寝ている。腫れも引かない。それぐらい、精神的なもので、疲れも疲れのとれかたも全然違います。
この人も、疲れやすいんじゃなくて、精神的な状態が整っているんだって分かったら疲れも引いていく。疲れる気持ち良さがわかったら、疲れの怖さがなくなります。
疲れても大丈夫っていうのを信じてみたらどうでしょうか。
めいっぱい疲れて、安心して寝てみたらどうでしょうか。ここは、もう精神的に安心できる環境だから、きっと大丈夫です。
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