一生懸命やることについて、質問させてください。
自分は最近になって、なのはなファミリーで生活や作業の中で、こういうふうに自分をたくさん使って、人のために役に立ちたいと思って動くこと、それが一生懸命さに繋がるんだなと思うようになりました。それがすごく楽しいなって感じています。
まだできてないところはあると思うんですけど、少しずつそういうのがわかってきて嬉しいです。今まで私は一生懸命に何かをしたこともないし、やりたいと思ったこともありません。何かのために動くとか、ほかの人に役立つように動くというのもわかっていませんでした。
自分は習い事をたくさんしてきて、例えば音楽だったら音楽のコンテストに出たりしたこともあるのですが、一生懸命にした記憶がないんです。
そういうことは、私にとって一生懸命に向かう対象には全然ならなかったし、むしろそういうのは怖くて、できたら避けたいとか、どうでもいいことと思うようにしてきました。それで私は、これまで一生懸命にするものが何もなかったのですが、お父さんはどうしてだと思いますか。
【お父さんの答え】
なるほどね。やる意味がわかってないと、一生懸命はできないものだと思います。
一生懸命にする、というときには、その行為の目標とか、着地点を決めずに始めることはできないものです。つまり、これを達成するために懸命にするとか、誰か特定の人を助けるためにこれをする、というように目標を決めなければなりません。
それが例えばピアノの習い事をとると、目標地点というのは、あるようでないですよね。私は音楽大学に行ってから、ピアニストとしてデビューする、というように目標を決めてから習い事を始める人はほとんどいないでしょうね。
そうすると、なんだか目標があるようでないまま練習することになります。せいぜい、年に1回の発表会に出るための練習をする、というくらいでしょうか。
それも1つの目標ですが、それを一生懸命にやってどんな効果を期待するのか、というと特にありません。そんなとき、頑張る、という気持ちの落ち着き先がなくなるんです。だから頑張る意味がわからないし、頑張れなくなってしまう。
究極の目標というのは、そうすることが不特定の第三者に大きなプラスの影響を与えるということがわかっているときの目標です。
また、個人の成果が評価されるというのも目標にはなるのですが、利己的な人はそれで頑張ることもできますが、利他的な優しい心を持った人は自分の個人的な評価を高めるために頑張るというのは、それほど打ち込めないものなのです。
小・中・高校の勉強でも、目標があってないようなものです。つまり受験勉強は目的の学校に合格するための勉強で、目的はあるものの、その効果は自分だけのもので、しかもその先は何も見えていません。そういうものに人は何年も頑張れないと思います。つまり勉強のための勉強で、どんなに一生懸命に頑張っても、行けども行けどもさらにその先に勉強が待っているだけ、というようなとき、人のやる気は長続きしません。
だけど、なのはなファミリーでの農作業で、芋が沢山穫れたというとき、傷芋にしないように、みんながたくさん食べられるように一生懸命に頑張ろうというのは、みんなが喜ぶ顔が浮かぶので頑張りやすいのだと思います。
音楽練習でも、なのはなのコンサートを見たいと言って来てくれるお客様のためだし、それもお互いに優しい関係を作っていきたい、というテーマを伝えるためのコンサートなので、やる意味がはっきりしています。
意味や目的、その効果がハッキリしていて、それが他の人に喜んでもらえることになる、とわかるときなら、自然に一生懸命な気持ちになれるでしょうね。
(2024年3月13日 掲載)
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