最近、自分の年齢が気持ちに追いついてきたと感じています。
私はなのはなファミリーに来たころ、大人子供になっていました。それというのも私は小さい頃から、宗教本と啓発本と哲学本にずっと気持ちを逃がしてきました。
自分の親もセミナーが好きで、一緒にセミナーに行ったりしていました。
そうしているうちにどんどん特殊な人になっていってしまい、まわりの普通に生きてる人を普通に思えなくなっていました。特殊な人のほうが、「答え」を持っていそうだったし、そういう人としか自分は関われないなって思ってたんですが、そうやって私は死んでしまいそうになるギリギリのところで自分を保ってきたのかなと思います。
そういう経験があるせいか、いま本を読む時に、この本に書いてあることは正しいのかと読むのをためらう気持ちがあり、読むべき本の基準をどこにおいたらいいのかわからなくなるのですが、どんなふうに考えたらいいでしょうか。
【お父さんの答え】
いまの話を集約すると、セミナーとか、啓発本に依存してたということね。啓発本にはいいことが書いてあるのだけど、読み方に歯止めがかからない依存的な読み方になってしまい、理性的に読めてはいなかったということですね。
啓発本を読んだり、セミナーを聞いたりしているときだけ安心できるということで、本を読むことに薬のような効果を期待していたのだと思います。
でも質問者は、すでに摂食障害だったときの苦しさが取れていて、気持ちを逃がすために本を読んでいるわけではないですよね。
いまは通信教育の授業を受けたり、本を読んでレポートを書いたりしていますが、ストレスから逃げるためではないので、以前の啓発本に依存していた時とは全く異なる読み方をしていると思います。だから、本を読みすぎて、また依存的に本を読むのが止まらなくなるのではないかという心配も、必要ないと思います。
啓発本はどれも、一見、すごくいいこと書いてあるから、とてもためになると思って喜んでのめりこんでしまうことがあります。依存的に啓発本にすがってしまう人はけっこう多いですね。そんなふうに依存的な啓発本大好き人間を何人も見たことがありますが、依存的になってしまうと啓発本を読んで得られるメリットよりも、むしろデメリットのほうが多くなってしまいます。
しかし、摂食障害を発症して苦しい気持ちを抱えている時には、依存的な本の読み方になることもあるでしょうが、質問者はすでに症状がすっかりなくなり、自分がなぜ摂食障害になったか、どうやって症状から完全に抜け出ることができたか、というのがわかっているいまとなっては、どの本を読んでも依存的な読み方になるということはありません。
面白い本だと思ったら、面白く読めばいいし、つまらない本だと思ったら途中でも、読むのをやめればいい。自分が面白いか、面白くないかで、自分にとっていい本なのか、そうでない本なのかを判断しても、何も問題ないです。
自分が興味深く読めるかどうか、そこに基準を置いていいと思います。書いてあることが正しいのかどうかというのも、依存的な気持ちが完全に抜けたいまは、自分で判断できるようになっていると思います。それにしても、質問者は今は小説をたくさん面白がって読んでいますよね。それを重ねていけば、自分の情緒に深さやひだをたくさんつけていくことができると思いますよ。
(2023年7月12日 掲載)
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