この前の保護者ミーティングで家族に会ったとき、改めて家族は、というよりお母ちゃんと妹が特にすごくオタク気質だなと思いました。
自分が小学校のころから、お母ちゃんと妹は同じ漫画とかスラムダンクとかにはまっていて、いろんなジャンルがあるんですが、もう、はまったら一直線みたいな感じでどこまでも調べるし、すごくそれが楽しそうで、自分もそれに乗って頑張っていろいろ調べてみたりするんですけど、自分はそこまでの熱は持ってなくって、なんかオタクになるのっていいなって、そのときは羨ましく思ってたんですけど、お母さんも妹も摂食障害ではないんですが、そういうのめり込むものがないと駄目だったのかな、とも思いました。
なんだろう、生活の半分ぐらいの頭が、他のことに向いてないと生活できなかったっていう状況だったと思って、当たっていますか。
【お父さんの答え】
何かに興味を持って熱中できるというのは、ある種、すごくいいことだなとは思います。
集中力があったり、継続性があったり、粘着力があったり、研究熱心だったり、という意味では、賞讃されていい特質ですよね。
ただ、オタクの定義は定まっていないようだけど、大衆文化の愛好者とか言われたりするけど、別の言い方をすれば、およそ日常生活では何の役にも立たないものに熱中する人のことに対してオタクというんだと思います。
もしも、家族の役に立つとか、社会の役に立つものに熱中したら、それは仕事熱心とかね、勉強熱心とかね、研究熱心って言われて褒められます。ところが、一般的には何の役にも立たないものに異様な執着を見せるから、オタクは集中力があっていいよねって、やっぱり言いにくい。
鉄道オタクも広くて、多いですね。鉄道には写真を撮る撮り鉄、乗るのが好きな乗り鉄、いろんなジャンルがあるけど、これも何の役にも立たないという意味では同じ。
それで、質問者の場合には、母親と妹がオタクになっているのは、他のことに向いてないと、生活できなかった状況かどうか、ということですね。
誰にでも言えることだと思いますが、ある種の日常生活の辛さとか、希望のなさ、空しい感じから、自分を逃がすための手段として、何か特定のことに気持ちを逃がす、ということはあるでしょう。
最近では「推し」という言葉もよく使われるようですが、「推し」にはまると、自分の命よりも「推し」のほうが優先するということも聞くので、趣味を超えて命をかけられると言えるくらいの熱中度なのでしょうから、頭の半分くらいをそれに向けていないと生きていけなかったといってもいいんじゃないでしょうか。
一番、イキイキとなれるものが、日常で役に立つものだと駄目なんでしょうね。つまり、生活そのものに囚われることになるので、気持ち的に解放されない。生活がかかってるからね。
だから何の役にも立たないところに気持ちを遊ばせることで、初めて解放される。熱中して取り組んでるものがどんなにすごい華々しいことになっても、自分の生活とは関係ないから、気分的にはすごく良くなる。
だけど、自分よりもそっちが大切になってしまう、というのは問題ではあるよね。自分の苦しさは忘れられるだろうけど、社会生活から逸脱してしまう可能性がある。
ただね、そういうのは一概に、ダメだよ、とも言い難い面があります。昔の評論家の小林秀雄も趣味が移っていった。一時は勾玉に凝って、たくさん集めてみたりしたけど、飽きてしまって次のものに凝る、というように興味が移る。
何か自分の想像力を刺激して、創作意欲を高めてくれるものに熱中する、それで新たな何かを生み出していく、という著名人もいました。
だけど、よく考えてみると、オタクは大衆文化の愛好者であって、それは「ウォッチャーかプレイヤーか」という分け方でいうと、常にウォッチャーであって、プレイヤーには成り得ない人たちとも言える。
発信者か受信者かというと、常に受信者であり続ける人。表現する人か、受け取る人かでいうと、常に受け取る側の人。
そういうことを考えると、受け手であることを堂々と公言して憚らないというのは、生き方としてはあまり共感できないように僕は思います。やはり、気持ちの逃がし先という要素がつきまとっているように思えてならないからです。
いい年をして熱中できるものがあるという意味では魅力的だとは思いますし、気持ちを逃がしている人は全部が全部ダメですとは言いませんが、このご家族には、どちらかというといつか辛さを克服して、受け手のポジションを抜け出て、発信する側の人になってほしいと言いたくなってしまいますね。
(2024年2月2日 掲載)
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