「虚しさを過去のものに」 まなか

4月9日

 午後に、箱の桃ジャム用の桃花を作りました。
 スモモや梅ジャム、ブルーベリーはどんな色や組み合わせにしたら綺麗か、あーでもないこーでもないと良いながら作っているのがとても楽しかったです。
 いくつか綺麗な組み合わせに辿り着いて、紫のお花紙をつかった桃花が一番のお気に入りになりました。
 箱に合うように上品で美しい印象になったらいいなと思って、一番いい形に出来たら良いなと思います。

 前に、少しお父さんにお話したかもしれないのですが、私の中にある虚しい気持ちと症状はぴったりとくっつき合っているのだと最近気がつきました。
 どんなにやりがいを感じられたり、仲間を感じることが出来た瞬間があったとしても、ふと虚しくなると途端に症状に足下をすくわれるように、引きずり込まれるのだろうなと思います。

 作文を書いていて、私はなのはなにくるまで、ほんの少しも虚しくない時間がなかったのだと思いました。
 感動する映画をみても、小説を読んでも、自然や生き物に触れても、誰かが親身になってくれていても、ふいに「自分はなんのために心を使っているのだろう。どうしてここまでして生きなきゃいけないのだろう」とどこかで思いました。
 すぐに「だったらこのいい気持ちで早く死ねたらいいのにな」という気持ちで、症状を悪化させてきました。
 その根源は自分を思う利己心で、幼い頃に経験した夕方のぽっかりした気持ちとそっくりそのままなのですが、それが私の症状へのスイッチなのだと思います。

 今シスターをさせてもらっていたり、作文を書いて改めて自分の症状に向き合っている中で、この虚しさを感じると一気に行き止まりになってしまうのだなと感じました。
 目標の持ち方が分かるまで、私のこの虚しさは個人的な感じ方で、一生この切なさを持ち続けるのだと思って何もおかしいことだとは思っていませんでした。
 ミーティングで気づきがあったとき、その考え方で世界を見ると今まで感じていた虚しさは1つも感じなくなることに本当に驚きました。
 本当に未来が楽しみになる事は、こういうことだったのかと初めて知ることが出来ました。

 どうして、なのはなで回復すると症状がぶり返さないのだろう……と考えると、仲間がいることや目標があることは勿論なのですが、成長しても目標を掲げても行き止まりがないこともあるのだなと思いました。
 当たり前のこと過ぎて恥ずかしいのですが、「成長してダメなところを改善したらそれで終わり」とか「目標が達成できたら終わり」という考え方で生きてきていて、成長過程が人生で、生き甲斐になることを知らなかったのだと思います。

 私は「楽しんだら終わり」「幸せを感じたら終わり」「何か出来るようになったら終わり」と日々の生活の中にいくつもいくつも終わりを作って生きていました。
 その日々は本当に虚しくて、他の人からいくら「充実してていいね」と言われても、「死ぬまでこれの繰り返しだな」としか思えなかったので、何をしていても半分は冷めた気持ちでした。

 今、なのはなで成長することが楽しくて、みんなのために自分を高めていきたいと思うのは、そこに行き止まりは無くて、果てしなく繋がる未来が見えたからなのだなと思います。
 本当に大きな話しをすると、私が死んだ後にもきっと誰かが私たちの気持ちを受け継いでいってくれるのだろうと思うと、たくさんのまだ見ぬ誰かに守られているような気持ちになるのだなと思います。

 私は死ぬまで成長し続けて、やりがいや生き甲斐を感じながら仲間と一緒に生きていたいです。
 この気持ちを無くしたくありません。
 本当に私のすぐ後ろには、虚しさが口を開けて待っているのだと感じています。
 1日1日を謙虚に、毎日、心を正しながらしか私は生きていけないのだなと思います。

 私はこの先、自分で立てた、まだ見ぬ誰かのための目標に、少しでも「?」を感じてしまうことがあったなら、きっとそれはもう症状の入り口に立っているのだと思います。
 とても分かりやすいけれど、まだ自分には身近すぎる気持ちです。
 お父さん、お母さん、みんなのなかで成長しながら、どんどんこの虚しさを過去のものにして、自分全部を誰かのために使っていけたらいいなと思っています。