「今、ここから始まる ―― 勇気を持ってベストを尽くした ウィンターコンサート ――」 あけみ

 

○自尊心と仲間

 コンサートは大成功でした。誰かに教えてもらわなくても、ハッキリと感じました。
 私は今年の脚本がとても大好きです。お父さんお母さんたちが生み出してくれた、私達やまだ見ぬ仲間のためのメッセージだと思います。
 だから本番前、緊張もあるけれど、この脚本を皆でたくさんの人に伝えることが出来る、発信できる、ということが嬉しいという気持ちが強かったです。

 今回のコンサートの登場人物であるヤマトの台詞で、
「自尊心を守るんだ。自尊心はデリケートで、あまりに痛めつけられすぎると、自分で壊してしまうこともある。その壊れそうな自尊心を守ることを教えるんだ。もう1つは、必ず心開いて打ち解け合える仲間を作ること。この2つが実行できたら、命は救える!」
 と教えてくれています。
 ジャンヌ・ダルクが、
「勇気を持つためには、……自分を捨てることです。あなたと同じ苦しみを、同じように苦しんでいる人がたくさんいるのです。その人たちが生きられる道を、自分の手で伐り拓いていこうと、そう思うことなのです。そのためには自分の身を投げ出しても構わない、そんな志を立てたなら、そのときから、あなた自身が救われることになるのです。勇気をもって、自分を捨てて、時代を伐り拓いていく1人になってください」
 と言っています。
 この2つのことを、このコンサートの過程の中と、コンサートで実際に形にしたり、皆との積み重ねる日々の中で自分のものにしてきたと思います。 
 今までも、その時、その時の自分のベストで向かったり、その時その時に気づくことがあったけれど、このコンサートでは特に気づきが多く、今までとは自分の中で違ったコンサートや、コンサートまでの過程だったように感じました。

 

 
○『オブリビオン』

 開演前、幕が閉まり、ブルー暗転の中で皆とスタンバイ。とても緊張していたけれど、どこか落ち着いていました。それは、自分ではなく、皆との積み重ねてきた日々や、皆の一部としての自分、人智を越えた存在に生かされている自分というものを信じる気持ち、脚本の一部としての自分の役、使命に添わせるだけ、と思えたからだと思います。

 1曲目『オブリビオン』。この曲は、サビや大まかな構成を遠くで働いている卒業生ののんちゃんが考案してくれて、動画などで送ってくれ、その後あゆちゃんを中心に構成やダンスのイメージなどを考案し、ダンス部のメンバーで動画の解読や振り入れなどをしました。また、この曲をコンサートの演奏曲目として提案してくれたのは、大竹さんでした。本当に皆で形にした曲です。

 この曲をあゆちゃんと、ダンス部のメンバーと皆と形にしていく過程も、とても面白かったし、自分が生きていく中で不可欠な答えやヒントがたくさんありました。
『常に仲間を想うこと』『祈る気持ち』『自分を捨てる、前向きなところにしか答えはない』
「あなたが私で、私があなた。前の人と同じところを見て」
「どんなに才能や能力があっても、それが1人だったら、それは、1人の力。でも、仲間がいるということ、仲間を集められる力や魅力があるということ、それが本当の強さだし、あるべき社会やつながりをつくるのにも、とても大切なこと」
「どんな状況やコンデションであろうが、今から後ろにあった過去は切り捨てていく。そして自分の役割に尽くしていく」
 あゆちゃんがダンス練習に教えてくれることは、踊りの形や動きだけではなく、人として私が本当に生きられる気持ち、姿、心持ちがたくさんありました。

 今回、コンサートに向かうにあたって、私はダンス・コーラス部門として動かさせてもらうことになりました。コンサートの候補曲を、あゆちゃん、まえちゃんや卒業生ののんちゃん、ダンス部のメンバーと一緒に考案や、動画の解読、振り入れ、練習の組み立てなどを担当しました。
 ダンス部として皆と動いた期間、過程も、脚本でお父さんお母さんたちが伝えたいこととつながる、私と同じように苦しむ人達が生きられる道を切り拓く、私の“本番”でもありました。

 あゆちゃんが教えてくれた言葉で好きな言葉があります。
「“踊る”それは、あるべき姿や気持ち、あり方を具現化するための表現のひとつ」
 その言葉通りだなと感じます。
 なんだか言葉にすると、大げさになってしまうけれど、踊りながら、あるべき形を皆と求めながら小さくでも大きくでも答えに気づくこと、その発見が新しい道なのだと思います。
 私は、踊るという表現が、改めて深く好きになりました。

 皆のダンスを前から見て、形や動きを伝えさせてもらう機会が多かったです。そこでも気づきがありました。ダンスという表現、『オブリビオン』という一つの作品という中にも、本当の生き方、あるべき人と人との関係、人智を超えた存在が求めている美意識というものが存在する、縮図のようなものだと思いました。

 まず、気づきとしては、前から自分が見る、伝えるという時に自分へのこだわりや、評価への怖さ、不安、自己否定が残っていたということに気づきました。(こんな自分が皆に指示をするなんて申し訳ない)というような気持ちでした。
 でも、それは違ったのだと気づきました。前で見る、踊る、という役割や責任は違っていても、そこには上も下もなかったです。一つの作品をつくる、大きな生物があるとしたら、私はそこでただ目の役割をして全体が見える場所にいるだけということでした。そして、全員が同じように気持ちをそろえ、それぞれの役割をベストをつくして果たす責任があるのだということにも改めて気づきました。

 

 

 あゆちゃんが前から見てくれるときも、同じだと思いました。(あゆちゃんが言ったからこうやる)のではなく、あゆちゃんも自分も一体となって、あゆちゃんが見ている光景、イメージ、あるべき姿をいかに自分の中でイメージ、構築して、それを体現できるか、修正していけるかだと思いました。私も、そこにある人智を超えた存在が求める美意識を、全力で探し体現し、間違ったら修正し、自分のものにしていきたいと思いました。

「勇気を持つためには、自分を捨てることです」ジャンヌ・ダルクの台詞につながります。自分のための自分を捨てて、人智を超えた存在が求める美意識を表現するための一つのコマとしての役割を全うする、求め探し表現していく。それは、私が本当に生きられる答えの一つでした。
 その答えを実践するところは、いつも自分の目の前にある“今”なのだということにも気づきました。日々の小さな役割、自分の表情、立ち振る舞い、食事のコメント、鍛える場所はたくさんありました。

 “仲間を想うこと”。これも、『オブリビオン』や『ホワイト・フラッグ』などの大人数ダンスで強く皆で意識しながら、自分たちの中に落とし込んできた、あるべき私達が生きられる答えの一つ、発見の一つだと思います。

 『オブリビオン』の曲では、途中、皆で放射状に円になる部分があります。その隊形のまま、となりの列の人と回転をしながら何度も入れ替わったり、狭い間隔のまま振りをする場面です。これは、古吉野での練習からゲネプロ後の練習という、本当に本番ギリギリまで調整や確認、練習をしたとても難しい部分でした。
 この曲は、“仲間を想うこと”と、“祈る気持ち”がなければ完成しない曲です。
 この難しい部分は、皆で本当に何度も何度も練習してきました。一人ひとりの存在や動き、気持ち、祈りが成功するかどうにかかっています。

 ゲネプロ後、反省や確認のあとにもう一度、この放射状の部分の練習をしました。ホール入りをして、平日お仕事にいっているメンバーなども入り実際のステージで行うと、やはり不具合が出てくることが多かったです。振りの一部分ももう一度、あゆちゃんが見てくれて統一しなおしました。
 練習後、体力や気持ちも出し切った後で身体や気持ちがもうこれ以上動かない感覚と、まだあるべき姿にたどり着けないという悔しさなどでか、自分でもわからないけれど涙が止まらなくなってしまいました。ふみちゃんやなるちゃんが、「一人じゃないよ」と一緒にいてくれたのが心強かったです。

 そして本番の『オブリビオン』。放射状のフォーメーションにいくときは、今までにないぐらいに強く強く祈りました。(どうか上手くいかせてください!)全身の感覚で皆のことを感じました。
(5、6、7、8!)強い気持ちで振り返ります。真正面にはななほちゃんがいます。隣にはちさとちゃんや、ひろこちゃんがいます。円の中心には卒業生ののんちゃんがいます。言葉がなくても、空気や意識で皆とつながっていて、(ここだよね!)と焦点を定めるのをはっきりと感じました。そこからは、目まぐるしい移動の連続。祈る気持ちをずっと切らさずに、回転をします。皆と一つの歯車のパーツのように噛みあっていきました。最後のサビへの移動、一人ひとりがお互いのことを想って移動しているのを感じました。
 そこには自分だけのための焦りや気持ちがなく、全員が仲間を想って、同じものをかたちにしようと全力を尽くす姿がありました。
 踊りきったときに、今まで皆で積み重ねてきたすべてが、人智を超えた存在の美意識に添わせられたような、踊るという手段をつかって対話ができたような感じがしました。皆で達成した、大きな成功体験です。

 

 

 
○まだ見ぬだれか、仲間のために存在する自分

「あなたと同じ苦しみを同じように苦しんでいる人がたくさんいる。その人達が生きられる道を自分の手で切り拓いていこうと、そう思うことなのです。そのためなら自分の身を投げ出してもかまわない。そんな志を立てたなら、その時からあなた自身が救われることになるのです」
 ジャンヌの台詞にある言葉です。
 ダンス練習でもそのことを感じました。私は今回、全体を見て振りを伝えたり、動きを見ることが多かったです。個人の練習というよりは、皆とだったりキャッチアップメンバーに振りを伝えるという時間が、とても多かったです。でも、それが私の力になっているということを強く感じました。

 お仕事組さんや、練習のスタートが遅かったメンバーとキャッチアップを一緒にさせてもらうなかで、自分が振りの動きを深められること、気づかせてもらうことが多かったし、何よりも“一緒に練習してきた仲間が一人でも多くいる”ということが大きな力になるのだと改めて感じました。

 りのちゃんとの練習では気づかせてもらうことも多かったです。りのちゃんがダンスに挑戦していく姿、練習に向かう誠実さや、美しいものをという気持ちでその時の自分のベストで尽くす姿に私も力をもらいました。朝の時間、時間は短かったけれど一緒に自分たちが苦手な部分を何度も繰り返ししながら、身体の体重の移動のしかた、振りの見せどころや止める場所なども改めて発見が多かったです。振りのコツやポイントを一緒に発見した後に、うまくいったときの、りのちゃんの笑顔が、心から嬉しかったです。
 曲で通すときも、本番の時も、緊張して怖くなる瞬間があります。でも、(あ、ここはりのちゃんや皆と一緒にやったところだ)と思うと力がわきました。
 当日、身体のコンディションで、りのちゃんと一緒に練習しても踊れなかった部分は、りのちゃんの分も表現したいと思いました。(絶対に思いっきり表現してやる)と強い気持ちになれました。

 自分のための自分ではなく、仲間やこれからの仲間のため、あたらしい道を切り開くために動いた時、一番救われていたのは私自身でした。
(ああ、こういうことなのだな)と改めて、ジャンヌの台詞を体験として自分の中にいれられました。

 

○ジャンヌ・ダルク

 今回の劇で、ジャンヌ・ダルクという役をさせていただきました。
 ジャンヌ・ダルクという役や、ジャンヌの台詞を何度も言うなかで、自分の中で気づきや落とし込めることがたくさんありました。

 ジャンヌをするにあたって、
(自分を捨てる、ということは自己犠牲とは違いますよね?)
 と質問をしたことがありました。お父さんは、
「自分を捨てたとき、何が残ると思う? 自分を捨てたら“理想”だけになるんだよ」
 と教えてくれました。
 自分が失敗する不安、自分への評価の不安や怖さ、自分の過去にこだわる気持ち、それを捨てたとき、“理想”だけが残る。その理想に向かって、自分が全力を尽くしていく、ただそれだけなのだ、という話がとても強く印象に残りました。
 誰かのために動き続けていなくては怖さがある気持ち、存在していはいけないような気持ち、贖罪をするように自己犠牲に偏りたくなる気持ち、それは私に残っている、ぶち壊すべき壁の一つだと思いました。その答えがあると思いました。
 たしかに、自分を貶め、ボロボロにして安心するということは、結局、自分を守る一つの手段なのだと気づきました。
 自分の身体も、自分の気持ちも、生かされている一つのコマとして存在するべき大切なもの、必然的なもの。それは自分にも、皆にも同じように言える。そして、それぞれが使命や宿命をもって生きている。だからこそ、それにベストで尽くしていく。ただそれだけ。
 この部分は、まだまだ深めたい、もっと自分のものにしたいと思う部分です。

 また、目線一つでも自分の気持ちの持ち方が間違っていたと教えてもらうこと、気づかせてもらうこともあります。
「私はフランスを救う」という台詞のところ、最初は身体や目線が次の役者の人にいったり、後ろに下がってしまっていました。
 あゆちゃんから、
「ジャンヌはすでに3人の聖人の夢をみていて、自分が戦いに行くイメージも、勝利するイメージも、しているんだよ」
 と教えてもらいました。私は、無意識的にどこか不安がっていたり、心配する感情があったことに気づきました。ジャンヌ・ダルクは、もっと前向きで、強気で、私自身もそうであっていいのだと気づけました。

 処刑台でジャンヌが火あぶりにされるシーンがあります。
(ジャンヌも1人の19歳の少女で、やはり火あぶりの時には悔しさや怖さ、憤りがあったと思いますか?)
 とお父さんに聞いた時に、
「ジャンヌは怖くも悲しくもなかったと思う。自分の使命を全うして、神様の近くに行けるぐらいの気持ちだったと思う」
 と教えてくれました。
 何度も通しの練習をして、ふと急にお父さんが教えてくれたことが自分にストンと落ちるときがありました。
 はりつけにされ火あぶりにされるシーン。それまでの通しでは、どこか、(どうしてなんだ!)という怒りや悔しさのような感情がありました。でも、ふとジャンヌは、その時やその時代の自分への評価や仕打ち、過去の人達への怒りや憤り、悲しさをはるかに超え、人智を超えた存在との対話のようなもの、祈りがそこにあったのではないかと気づきました。

(私は、自分に与えられた使命、宿命に真正面から向き合い、全身全霊で尽くしました。これで良かったのですよね)
(それは、きっとこれからの時代の新しい道につながっているのですよね)
 どこまでも、自分のためではなく理想を強く深く求め続け、動き続け、つくりつづけた、女性なのだと思いました。

 本番、ジャンヌ・ダルクの役をしながら、お客さんや皆の中で、私もそんな風に生きていくと誓うように台詞を言いました。
 ジャンヌの役をしながら、脚本の台詞を言いながら、そうやってあるべき姿、心持ちに気づき、少しずつでも落とし込めることが本当にありがたいと思います。

 

 

 また、今回このジャンヌのシーンでは、大竹さんがジャンヌ・ダルクの甲冑を作ってくださいました。ホール入り前の短い時間にも関わらず、踊りやすいように小さな細工がたくさんあったり、最後の最後まで、「ジャンヌ・ダルクをかっこよくしたい」と常に進化をさせてくださいました。
 お母さんも、最後の最後まで衣装のことを考えてくださいました。ホール入り3日目に、甲冑と一緒でもいいように、金スパンコールのチューブトップに白シフォンスカートを主とした衣装に変更しました。実際に甲冑が映えるような劇の演出も新しくお父さんが考えてくださいました。

 ゲネプロ前には、大竹さんが甲冑の腰の部分にも新しく部品を加えてくださいました。『エラスティック・ハート』で、身体を横にしてポーズをしているシーンでも映えるようにということを考えてくださっての追加でした。
 ゲネプロ後には、お母さんが甲冑を『天国への階段』でも着られたら、その後のシーンでも続けて着られて、甲冑を長い時間見てもらえると考えてくださいました。

 毎日のように、次々の変わる衣装の早着替えや、劇の構成。お父さんお母さん、大竹さんの、「いつも更に良くしたい、もっともっと良くならないか」という気持ちに、(ああ、そんな風に生きるべきなのだ)と改めて教えてもらいました。何かの枠や、誰かの教えにとらわれていなくて、主体的にあるべき姿、理想を求め続ける攻めの姿勢で生きる姿がかっこいいなと思いました。私も必死に食らいつき、同じ気持ちで役をまっとうしようと思いました。

 『天国への階段』からすぐに、マイクをつけて村人との劇にはいり、そこからはけた上手で早着替えをして『グレイテスト』を踊ります。ここは、はけてからのつなぎの台詞やシーンはなく、ダンサーの皆がそれぞれのポーズを取りながら場面を繋いでくれています。『グレイテスト』が終わると再び、ジャンヌ・ダルクの衣装に戻りジャンヌの火あぶりのシーンになります。火あぶりのシーンでのジャンヌの台詞は、この脚本でまえちゃん演じるヤマトの自尊心と仲間をつくる話しと同じぐらい、大切な部分になっている、とあゆちゃんから教えてもらいました。時間をかけてしっかりとお客さんに伝えることが大切だとも教えてもらっていた部分です。火あぶりのシーン後は、下手にはけると同時にマイクと十字架を急いでなおちゃんに渡し、卒業生ののんちゃんと息を合わせて1幕から出ます。そして『エラスティック・ハート』を踊ります。
 今回の、コンサートで一番緊張し、気持ちも体力もスタミナが必要な部分でした。
 でもここで、私は一人ではなく、たくさんの仲間が助けてくれてその一部として存在している自分なのだと感じる場面でもありました。

 『天国への階段』では、舞台中央の舞台セットの中から登場します。暗幕で囲われた舞台セットの中で、
(私には使命があります。その使命を果たすために勇気をください。力をください。ただまっすぐに脚本の、皆の一部として全力を尽くさせてください)
 と、ただただ祈る気持ちでした。
 本番、甲冑を着てスタンバイしました。いつもより強くなった気がしました。大竹さんはじめ、たくさんの仲間が私にはいるのだと感じたからです。

 『天国への階段』を踊っていると、まるでジャンヌや、自分、皆の人生をなぞっているように感じます。最初は、農家の生まれで小さなジャンヌが踊っています。本当に自分が生きられる道、皆が幸せに生きられる道を強く求めるジャンヌがいます。でも、生きづらさを感じています。そこで現れるヤマトや、人智を超えた存在。まえちゃんのギターソロは、ジャンヌや私達が命をかけて求めた気持ちと人智を超えた存在との対話のようにも感じました。ギターソロの後の、ジャンヌは強く求めつづけ、そして自分が新しい道をつくるのだと覚悟を決めています。生半可な決心では出来なかったと思います。そのジャンヌの、崖っぷちだけど、前を向き使命をもって先頭を走る姿、強い気持ちを表現しました。最後は、あゆちゃんの声の一部となり、ジャンヌが自分のためではなく、まだ見ぬ仲間のために祈る気持ちで最後まで生き続けた姿として踊りました。

 ジャンヌの役をしながらも、それは自分が歩む道だと思いました。私は、ダンスという大切な自分の表現の手段の一つでジャンヌや私たちの気持ち、生き様を皆の音や存在、たくさんのお客さんの中で表現できることがとてもありがたいことだと心から思いました。
 
 『天国への階段』、上手にはけると、まりのちゃんや、やよいちゃんが待ってくれています。何度か早着替えの変更があったけれど、いつもまりのちゃんややよいちゃんが一緒に気持ちを添わせてくれました。本番では、マイクの取り付けのみになり、まりのちゃんが担当してくれました。やよいちゃんも、そばで見守ってくれていました。
 なんとか、自分の台詞前に立ち位置にたどり着けました。そこからは、ドンレミ村の村人との劇が行われます。

 私は、この村人のひろこちゃん、るりこちゃん、みつきちゃん、さくらちゃんが大好きだなと感じます。古吉野での練習期間では毎日のように、夜に古吉野で村の集会が開かれ、練習が行われていました。私も一緒に練習をさせてもらっていました。演劇に苦手意識があったけれど、皆がいつも一緒に練習をしてくれて、そんな時間が嬉しかったです。

 劇の後の『グレイテスト』への早着替えも、村人の皆が4人全員でカバーしてくれます。最初に行ったときは、時間がかかってしまい曲への間が空いてしまいました。そこで、ダンスメンバーの皆は場面を繋ぐためにポーズを考えてくれたり、村人の皆は早着替えの練習を一緒にしてくれました。
 劇からはけたあとに、まるでF1カーのタイヤ交換のように、ものすごい勢いで早着替えが進み、最後にるりこちゃんがストラップの確認をして、皆が送り出してくれます。皆の表情を見る余裕がなくそのまま舞台に直行するのですが、いつも背中ごしに皆が応援して「いってらっしゃい!」と背中を押してくれていると感じます。
 本番でも、スムーズに早着替えが行えて無事に『グレイテスト』の出に間に合いました。こんな風に皆と早着替えもするのも最後なのかと思うと、一瞬一瞬が大切に感じました。

 『グレイテスト』は、自分の気持ちとジャンヌ・ダルクの気持ちが混ざったような感覚で表現していました。ジャンヌ・ダルクは、フランス100年戦争という時代で色々な景色をみてきたと思います。ジャンヌ・ダルクとは比べられないのかもしれないけれど、『グレイテスト』を踊っていると、私が苦しんだように、いま苦しんでいる最中のたくさんの仲間が自分の後ろにはいる、ということを強く感じます。
 決して過去の怒りや悲しみにこだわったり、引きずるわけではないけれど、いつだってその怒りや悔しさ、憤りは自分の内側にあって、その気持ちを味わいながら生きている仲間がまだいるという現実もあって、だからこそ私は前に進まなくてはいけないし、負けられない、あきらめてはいけない戦いがあるという、気持ちでした。

 『グレイテスト』を踊っていて、いつも嬉しい場面がありました。それは私が一人で踊る部分で、ふみちゃんがかならず大きな声で「ドント・ギブ・アップ」という部分を歌ってくれることと、後ろを振り向いた時に、あゆちゃんが歌う姿が見えることです。
 言葉や会話はなくても、私には仲間がいるということ、お互いを大切に思う関係がそこにあるということを、踊っていると感じることがたくさんあります。そんな風に皆の中で表現すると、私は生きていると感じることが多いです。

 『グレイテスト』を踊り終わった後、再びジャンヌ・ダルクの衣装に着替えるのですが、本番そこでハプニングが起こりました。甲冑の一部分が壊れてしまい取り付けられなくなっていました。しかし、その場にいた卒業生ののんちゃん、ふみちゃん、つきちゃんがホッチキスや安全ピンをつかって全力でカバーしてくれました。
 その時、(ああ、私には仲間がいるんだよな。何も怖がらなくていいんだ)と感じました。助け助けられの関係が当たり前にある環境、普段の生活からもステージの横でも本当に恵まれていると感じました。

 また、お母さんはゲネプロ後の衣装の変更を申し訳なく思っていたけれど、お母さんが言ってくれたタイミングもすべて、あるべき姿や流れだったのだと感じました。
 大竹さんの甲冑と、卒業生ののんちゃん、ふみちゃん、つきちゃんの気持ちがこもった甲冑を身にまとっていたら、次のジャンヌの火あぶりのシーンへの気持ちも強く持つことが出来ました。
 根拠はないけれど、なんだか大丈夫だと思いました。あとは、人智を超えた存在、あるべき姿に自分がまっすぐに全力で添わせるだけだと思いました。祈る気持ちと誓う気持ちで劇に迎えました。

 『エラスティック・ハート』は、卒業生ののんちゃんが12月の最初に振りを考案してくれて、動画を送ってくれていました。自分で考えるソロの部分もありました。2人で実際に合わせたのはゲネプロ前でした。でも、最初に合わせたとき、すっとそこにもともと予定されていたみたいに、踊るのんちゃんがそのパーツにはまりました。離れていても、ずっとつながっていたのだと改めて感じて一緒に踊れて本当に嬉しかったです。
 あるべき姿はもうそこにあって、それを見つけるだけ。よくお父さんが教えてくれることの通りだったとも思います。

 

 

○『クリーピン』

 今回のコンサートは今までのコンサート以上に、直前まで変更が多く、それもまたいい意味で皆で楽しめました。
 『クリーピン』はゲネプロ前夜の、夜の体育館で大竹さんが、なおちゃんのラップ部分を考案してくれて、大竹さん、なおちゃん、ダンスメンバーのふみちゃん、のんちゃんとで練習をしました。
 ギリギリだけれど、大竹さんも皆も、だれもがいい意味でさらによくすること、つくることを楽しんでいると感じました。
 振りを考案してくださる大竹さんは自分を守るための怖さがなく、意志やイメージがハッキリとしていて、誰かの評価や教えの枠にもとらわれていなくて自由さがありました。その場で一緒に練習をさせてもらいながら学ぶことも多かったです。本番は客席から手拍子も聞こえて、お客さんからの気持ちがとても嬉しかったです。

 

 
○忘却の力

 魔女の独白は自分たちの叫びでした。役者の皆が自分をさらけだし、会場の人が拍手で答える。そんな場面が何度もありました。何度見ても舞台袖で涙が出るシーンです。本当に嬉しかったです。
 最後の『ホワイト・フラッグ』。緊張はないと言ったらウソになるけれど、怖さがなかったです。お客さんと一体になっているのを強く感じました。のびのびと、皆で決意表明をしている気分でした。
 自分たちの傷や痛みが、実際にたくさんの人達と一緒に新しい道を切り拓く力になる瞬間がそこにありました。オセロの黒が白にかわる瞬間のような感覚ってこんな風なのかなと思いました。

 

 
○自尊心と仲間

 自尊心を守ること。ジャンヌが言っていたみたいに、自分のための自分を捨てて自分と同じように苦しむ人達が生きられる道を、今ここから自分で切り拓いていこうと、そう思い、覚悟をもって動き、前に進んでいるとき、その時に私は(今を生きている)と強く感じました。その時の良かれの気持ちでつながる関係や人との間、信頼関係で救われていて、癒されていました。それは自尊心を守るということへのヒントでもあるように感じました。
 また、ヤマトが言っていたように仲間の存在の大きさも感じました。たくさんの仲間から学んだり、修正するべきところを教えてもらえることもあります。コンサートでも、これまでの作文に書いたように、皆と積み重ねてきた時間、体験、存在が、私の自信につながっていました。

 

 
○これから

 コンサートは終わったけれど、自分と同じように苦しんでいる人達が生きられる道を、自分の手で切り拓いていく本番は、私の“今”ここから始まっています。
 一曲一曲祈るように、誓うようにコンサートで表現したみたいに、
(私には使命があります。その使命を果たすために、力を勇気をください。どうかまっすぐにあるべき姿、道に尽くさせてください)
 そう祈るように生きたいです。