7月21日
卒業生のおとちゃんが帰ってきてくれて、おとちゃんがいるだけでその場の空気が明るく柔らかくなって、嬉しいです。昨日までも一緒に畑作業をしていたような気がするくらいに、自然に作業に入っていて、私もおとちゃんのようでありたいと、心を正されます。
今日の早朝作業で、サトイモの土寄せをしているとき、ふと、みんなの中に埋没する喜びを感じました。みんなとスピードと質を揃えて、同じ形の畝になるように土寄せをしていると、これが埋没するということかと、ストンと落ちる瞬間がありました。
私は、作業のとき、ともすると、野菜のための作業ではなく、自分をアピールするための、ひとり運動会に、恥ずかしながらなっていました。仕事に気持ちを向けられていないから、勘違いやミスを多発させていました。恥ずかしくて心が痛いのですが、無意識で個性をアピールしていました。そのことの馬鹿馬鹿しさを感じました。
気持ちをサトイモに向けて、個性を消して、みんなと同じ質とスピードで動いていると、心が静まって、汗と一緒に雑念も洗い流されるようでした。本当に滝のように汗をかいたけれど、清々しい気持ちでした。
ずっと、埋没することに対する怖さを消せずにいたのですが、その怖さがポロリと取れるのを感じました。個性をなくして、白米のように、地味ではあるけれど腹持ちが良くて食べ飽きしない、メインのおかずを引き立てる、なくてはならない存在になりたいです。私はきっとそうなれると、希望を感じました。
土寄せを終えた後は、下町川で作業をしたのですが、ピーマンとゴーヤが止まることなく育っていて、私も止まっている暇はないと、気持ちが引き締まりました。
午後からは、諾神社のお祭りのリハーサルを見学しました。踊るみんなの姿から、高いレベルで埋没することの美しさを、感じました。印象に残ったのは、出はけの練習です。あゆちゃんの言葉で、
「後ろの人も前の人と同じくらいに見せる意識を持っていたら、より前の人もひきたつ」
との言葉が印象に残り、私も心に留めようと思いました。
「個人個人でアピールするんじゃなくて、みんなでひとつのものになるんだよ」
言葉は違うかもしれないのですが、このあゆちゃんの言葉で、みんなの表情や動きがガラリと変わったのが、今も頭の中に鮮明に残っています。気持ちひとつで、こんなに表情が変わるのかと、客観的に見る側になることによって、よりはっきりとわかり、見学の時間がとてもありがたかったです。
リハーサルを見ていて、最近のお父さんのお話の、
「埋没とは引き算ではなく足し算で、高いレベルの普通の中に埋没することだ」
というお話を思いました。埋没する、ということは私のテーマで、お父さんの「高いレベルで埋没する」というお話が私はずっと頭にあります。頭だけではなくちゃんと心に入れたいです。
それぞれが個性を主張して踊っていたら、見ている側は、何を受け取って良いのかわからなくなります。それぞれが高いレベルで埋没して、表情も動きも揃っているほど、迫力が増します。また、個性を主張していなくても、気持ちが引っ込んでいる人がいたら、悪目立ちしてしまいます。リハーサルを客観的に見ていたら、そのことがとてもよくわかりました。「足し算で、高いレベルで埋没する」ということの理解に近づけたように感じて、そのことが嬉しかったです。
それから、踊っている人が恥ずかしがっていたら、見ている方も恥ずかしくなってしまうということを感じました。堂々と、役を演じていると、見ていて楽しくて引き込まれます。魅力的に演じるということは、優しいことなのだと、感じました。
私も、お父さんのように、高いレベルでの普通を求めて、謙虚な気持ちでいたいです。私はどうせ普通になれないと、ふてくされてしまったときもあったけれど、お父さんのことを思うと、自分が恥ずかしくなります。謙虚な気持ちで、当たり前のことを当たり前にしたいです。高いレベルで、みんなの中に埋没したいです。
私は、人の何倍も努力してやっと人並みの足下に及ぶかどうか、かもしれませんが、少しでもレベルの高い普通に近づけるように、自分の最大限を尽くします。