「『厨房の哲学者』感想文」 えつこ

1月27日

 脇屋友詞さんの『厨房の哲学者』を読んで、今の私が求めている言葉がたくさん書かれていて、これを少しでも深く自分に入れたいと思い、感想文を書きます。

 脇屋友詞さんは、15歳のときに、父親から、
「中学を卒業したら、赤坂の中国料理店で働きなさい」
 と言われて、厳しい父親に逆らうことは出来ず、『山王飯店』という中国料理店で働きます。そこでは、家のフライパンよりも3回り大きくて重い中華鍋を、ただひたすらに洗います。
 焦げのひとかけらも許されません。少しでも洗い残しがあれば、料理は最初から作り直しです。
 脇屋さんは、
「他のみんなは高校に進学するのに、何で僕だけ働かなくてはいけないんだ。他にもっといい場所があるんじゃないか」
 と、不満を持ちます。

 『山王飯店』で働き始めて最初の年の暮れに、「得意なスキーをしたら気持ちを変えられるかもしれない」と思い立ち、新潟の石内丸山スキー場に、スキーをしに行きます。
 夢中でスキーをして、「今から練習をしたらスキーの選手にもなれるかもしれない」とまで思います。スキーの後にレストハウスの土産物売り場に寄って、そこで、ある言葉に出会います。
「この道より我を生かす道なし。この道を歩く」
 小説家の武者小路実篤さんの言葉です。その言葉が書かれた額から、脇屋さんは、目が離せなくなりました。私も、この言葉から目が離せなくなりました。

 何を選ぶかではない。重要なのは何かを選ぶこと。何も選んでいなかったから苦しかった。
 この脇屋さんの言葉からも、目が離せなくなりました。

 この言葉に出会ってから、脇屋さんの仕事への向かい方が変わります。毎晩寝る前に時間を作り、その日自分が覚えた料理名とその作り方を、必ず書き留めました。週の最初の日に、その週の定食が決まると、それも忘れずにノートに書きます。先輩に言われたこと、誰かから聞いて心に残ったことも書きました。3月に厨房で働き始めて9ヶ月、休日以外、毎日鍋を洗いました。
 それを読んで、頭が下がる思いになりました。私は、甘えていられない、という気持ちになりました。自分の出来なさを嘆く前に、ここまで努力しましたか? いや、私はそこまで努力していない。じゃあ、頑張ろうよ、という気持ちになりました。

「耳はウサギの耳にしろ、背中にも目をつけろ」という言葉も、心に残り、その後も、作業のときに、この言葉を思い出します。
「耳はウサギの耳にしろ、背中にも目をつけろ」と、先輩から言われますが、脇屋さんは、最初は、何のことを言っているのかわからなかったと、書かれています。耳を澄ましても、厨房に飛び交う中国語の意味がわからない。目の前の鍋を洗うことに必死で、背中で起きていることが見えるはずがない。そう、思ったそうです。
 しかし、朝6時半から夜11時まで黙々と鍋を洗う生活を3か月も半年も続けていたら、変化が起きました。

 中国語がわからなくても、毎晩、机に向かい、その日覚えた料理名をノートに書き付けていたのも役に立ち、親方が厨房で使う言葉にも見当がつくようになります。
 言葉だけでなく、中華包丁がまな板を叩く音、熱した油の爆ぜる音など、それまで騒音に感じていた音が意味を持った音になり、背中で起きていることが見えるようになります。すると、動きも変わりました。親方が作っていた炒め物が仕上がるのを背中で感じて、鍋洗いをいったん中断して、料理を盛りつける大皿を親方の手元に滑り込ませ、その後で親方が料理を盛りつけた大皿を大急ぎで運んでホールの係の人に渡して、また鍋洗いに戻る、という動きも出来るようになります。
 ただの辛い労働だった鍋洗いが、自分で考えて動くようになったら、面白い仕事になりました。

 私は、この章を読んで、希望が見えてきました。私も、「ウサギの耳と背中の目」を持ちたいです。今の私は、背中の目どころか、認識力があまりにも低くて、目の前のことも勘違いしてしまうことがあります。それでも、誰が見ていても見ていなくても誠実に努力を積み重ねて、階段を一段のぼるように、「ウサギの耳と背中の目」を持った、脇屋さんのお話を読んで、出来ないと甘えるのではなくて、私も誠実に努力を積み重ねたら、変われるんだと、希望を感じました。

 逃げ道ばかり探していたころは、それが雑音になって、背中で起きていることが見えなかった。雑音を消したら、ウサギの耳と背中の目を手に入れた。

 脇屋さんは、こう書かれています。この言葉が、自分とも重なりました。逃げ道とは、私の場合、「どうせやっても出来ない」という自己否定や、保障を求める心、だと思いました。逃げ道ばかり探して、雑音で何も聞こえず何も見えずになって、自分で自分を苦しめていたと、思います。
 脇屋さんのように、よそ見をせずに、目の前の仕事に誠実に、誰が見ても見ていなくても努力を積み重ねて、私も、「ウサギの耳と背中の目」を持ちたいです。脇屋さんの話から希望をもらったように、私も誰かの希望になりたいです。

 

 涙が止まらなくなった言葉があります。
 自分のもののためだから人は死力を尽くせる。従業員がそこまで頑張れないのは仕方がないじゃないかと思っているかもしれないけれど、それは違う。
 目の前の仕事が、自分の仕事だと思えるかどうか。
 才能の差でも、運の差でもない。
 今、自分の目の前にあることに、とりあえず必死で取り組んでみることだ。それが心底、自分のなすべき仕事だとわかったとき、人生は必ず変わる。

 この言葉に、涙が止まらなくなりました。これが、利他心だと思いました。脇屋さんの本には、「利他心」という言葉は出てこなかったけれど、脇屋さんはずっと、利他心で中国料理に黙々と向かい続けて、だから、多くの人に喜ばれる中国料理を作り、「こんな美味しい中国料理は食べたことがない」と言って喜ばれるほどになったのだと思います。利己心があったら、ここまでの成功はなかったと思います。

 お父さんがミーティングなどで繰り返し教えてくださることと同じだと、思いました。脇屋さんは、男性の方ですが、ジャンヌ・ダルクのような方だと思いました。自分を捨てて、勇気を持って、中国料理の道を切り拓いていく物語を読んで、勇気が湧いてきました。

 印象に残ったエピソードがあります。脇屋さんが25歳のとき、東京ヒルトンホテル内の中国料理店『星ヶ岡』で働いていたときに、ヒルトン東京が新宿に開業しました。そのときに、『星ヶ岡』の総料理長と料理長は、新宿西口に新しく建設される『王朝』に移動します。脇屋さんは、『星ヶ岡』に残りました。旧東京ヒルトンホテルは、東急ホテルに改め、営業を開始しました。

 そのときのモットーは、「ホテルの名が東京ヒルトンホテルからキャピトル東急ホテルに変わっても『星ヶ岡』の味は守り続ける」ということ。
 しかし、新しい『星ヶ岡』の料理長は、その通りに作りませんでした。『星ヶ岡』は上海料理、新しい料理長は四川系の料理人でした。味が変わったと、クレームが入るようになります。それでも、新しい料理長は、プライドから、四川の作り方を貫きました。
 それを見かねて、脇屋さんは、料理を作り直します。そして、お客様に、「これが食べたかったんだ」と、お礼を言われます。
 料理長に話を通さずに、料理を作り直すことに抵抗があったけれど、『星ヶ岡』の味を守るために、作り直さないわけにはいかなかった。
 こう、書いていました。これが、「目の前の仕事が自分の仕事だと思えるかどうか」だと思いました。

 それからも、脇屋さんは、誰も思いつかないような、新しい料理を生みだし、多くの人々に喜ばれます。フランス料理店からヒントを得て、中国料理店のコース料理を、1人分ずつ美しく綺麗な皿に盛りつけて、お客様に出します。それは、これまでの中国料理では誰も思いつかなかったことでした。
 中国料理は一皿の量が多く、半分にできませんかと頼んでも、「うちはそういうことはしません」と断られるお店ばかりだったそうです。
 それから、脇屋さんのお店に予約が入るようになり、「こんな美味しい中国料理は食べたことがない」と、お客様に喜ばれます。
 それから脇屋さんは、「もっと中国料理を知って欲しい」と研究を重ね、しかし湯(タン)と呼ばれる、日本料理で言う出汁のようなものの作り方では、徹底的に昔ながらの方法を守り、こだわりを持ちつつも新しい中国料理を生み出して、予約は増える一方になり、中国料理の道を切り拓きました。脇屋さんの本を読んでいて、ひとつのことを突き詰めれば、こんなにも深い世界が見えるのだと、心が躍りました。そして、それは、才能の差ではなくて、目の前の仕事が自分の仕事だと思えるかどうか、なのだと思い、これこそが本当の生き方なのだと思い、力が湧いてきました。

 何を選ぶかではなくて、大事なのは何かを選び、選んだ仕事に誠実に向かうこと。そのことで、道は開ける。この強いメッセージが、心に刺さりました。
 脇屋さんの選んだ手段は、中国料理でした。しかし、私は、脇屋さんの本を読んでいて、稲盛和夫さんや、見城徹さんの本に書かれていたこと、そして、お父さんがミーティングで話してくださる言葉とも、通じるものを感じました。選ぶ手段は違ったとしても、深く突き詰めたら、行き着く境地は同じなのかしら、それが理想の世界なのかしら、と、思いました。

 この本に出会えて嬉しかったです。ちゃんと、この本から得た力を、実際の生活でいかして、本物にしたいです。目の前の仕事を、自分の仕事にして、誰が見ていても見ていなくても誠実に向かう。そのことが尊いのだと感じました。そのことで心が磨かれ、道が開ける。目の前の仕事、担当野菜、担当の楽器に、自分のこととして向かって、全力を尽くします。