「共感の幅、理解し理解される幅」 ななほ

11月12日

 先週のハウスミーティングで、お父さんに「愛されやすい人」について質問させていただいてから、自分の中で気づいたことや得たことが多いなと感じます。

 お父さんがいつも「愛情は理解し理解されること」と話してくださるように、私はなのはなに来るまでずっと、理解しにくい人、理解できない人だったんだろうなと思うし、自分を守るためにそうしてきてしまった側面があるんだと感じました。

 本来の私はものすごく人との共感や幸せを求めていたはずです。でも、共感や幸せを求めても、私が求めるだけの答えが返ってくることはなかったし、身内の人もそうでない人も、私を「少し変わった子」「しっかりした子」「物わかりのいい子」としか見ていなくて、そこに共感が生まれることはなかったし、私が共感を求めたり、愛情を求めているように思わなかったんだろうなと感じました。

 だから私は共感を求めることをやめたのだと思うし、もしあのまま、共感や理解されることを求め続けていたら、あまりにも自分の気持ちと結果が不釣り合いすぎて、もっと苦しくなっていたんだろうなと思います。

 以前、あゆちゃんから、
「融通が利かなかったり、真面目過ぎて遊びがないあまり、共感できないし、共感されにくいんじゃないか」
 と教えてもらったことがあったのですが、それが今になって繋がるし、そうじゃいけなかったんだなということに気が付きました。

 ハウスミーティングでお父さんが話してくださったように、私はいい意味では本当に理解してくれる人、ちゃんとした大人、利他心の人や、世間に流されずにしっかり生きている人には理解してもらえるし、大切にしてもらえるし、可愛がってもらえるのかもしれないけれど、私は今でも、遊びが無かったり、どこかで自分を縛りながら気持ちを閉じ込めて生きているから、どこか分かりにくい人になってしまうのかもしれないなと感じました。

 昨日、音楽合宿のОMTで2,3週目を「自由」というテーマで話させてもらい、ペアのふみちゃんに話を聞いてもらいながらも新たな発見がありました。

 共感についてを思った時、私はあまりにも自分に遊びがなかったり、羽目を外すとか、少し抜けるということがないし、できないあまり、日常生活でも本来感じるべき共感や理解が受け取れていないんじゃないかなと思いました。

 なのはな内でのイベントやコンサートで人前に立って何かを表現し、それを見ている人にしっかりと受け取ってもらえたという感覚を味わった時とか、今まで自分が体験してこなかったような喜びや楽しさを、みんなと畑をしたり、海で遊んだり、お父さんとお母さんの話を聞いたりする中で感じたときはものすごい、そこに共感が生まれたり、心が動かされたりして、自分の中に着実に何かが積み上がっていくのを感じます。

 でも私は、毎日の畑作業とか、日々の当番、自分の役割に向かう時、どちらかというと効率ばかりを求めて、少しでも早く、少しでもいい仕事をとそれしか頭にないから、その中でインプットされることが少ないんだろうなということに気づきました。

 もちろん、作業が効率を求めて、スピード感のある充実した作業をすればするほど、終わった後の達成感や充実感が大きくて、「みんなと一緒ならこんなこともできるんだ」「私1人では何もできないけれど、みんなの力があれば何でもできるし、楽しさもやりがいも何倍にもなる」と感じます。

 だから、楽しければ何でもいい、楽しければ効率なんてどうでもいいとは思わないけれど、私の場合は、あまりにも頭が固すぎたり、遊びがなさ過ぎて、本来、日々の何気ない誰かとのかかわりや、何気ない出来事の中にある小さな幸せを小さな幸せとして受け取れていないことが多いのではないかと思いました。

 私はどちらかというと、インプットよりもアウトプットが多すぎて、それは良いことかもしれないけれど、自分がもっと進化していく、より高みへと昇っていくという時、その材料となるインプットが適切に受け取れていないように感じました。

 お父さんとお母さんのお話とか、あゆちゃんの言葉とかに心動かされたり、自分の中でなのはなの価値観やどう生きていくかという土台を吸収していくだけじゃなくて、本当は、毎日の畑作業、当番、ダンス練習を通しても、「この人のこういうところが好きだな」「こんな風に誰かに伝えたら優しいんだな」「こんな風に考えたら、みんなのためになるんだな」というようなことを積み上げていかなければいけないし、みんなの姿からもっともっと、吸収していかないといけないなと感じます。

 それはある意味で、視野を広げるということだとも思うし、好きな気持ちや共感する幅を広げるということでもあるんだろうなと感じます。

 そして、私はずっとそれを求め続けていたし、それを求める気持ちはものすごく強くあるんだろうなと感じます。

 今でも、お父さんとお母さんと話していて自分のことを自分以上に理解してもらっていると感じたり、摂食障害という病気も含めて、自分たちがどういう心持で生きていったらいいのかを教えてもらうと、その答えを聞くだけで深く理解されていると感じます。

 それはお父さんとお母さんだけではなく、あゆちゃんと話していてもそうだし、同じように摂食障害で苦しんできて、今、利他心を軸にまだ見ぬ誰かが回復する道を作るために治ろうという時にも、みんなと深いところで共感したり、お互いに理解し理解できて、(自分だけじゃなかったんだ)とホッとすると同時に、勇気をもらいます。

 でも、私が共感する幅、理解し理解されると感じる幅、幸せと感じる幅や喜怒哀楽はまだまだ狭くて、きっと、お父さんお母さんや、あゆちゃんはもっともっと広い世界を見ているのだと思うし、私も理想をもって、その世界を見たいと求め続けたら、そうなれるんだろうなと思います。

 なのはなに来るまで、いくら私が求めても答えは返ってこなかったし、私の気持ちや考えを理解してくれる人は誰もいない、反対に私はおかしい子、変な子、浮いている子にされて、私が真面目なのはおかしいし、私がちゃんとしているのもおかしいと思わされてきて、これ以上苦しくならないように、私は共感されることや理解されることを求めるのをやめてしまった、いや、本当はものすごく求めているのに自分で自分の気持ちを見ないようにしてきたんだろうなと感じます。

 でも、そのままでは私がちゃんと生きようと思った時、虚しさや、共感されないし理解されないという不安、どこか大きな欠落が空いたままになってしまうような気がして、もっと視野を広く持ち、上手にインプットとアウトプットをして、なのはなの気持ちや利他心の価値観を自分の中に入れていきたいと思いました。

 お父さんにハウスミーティングで質問させていただいた内容が、個人的には自分が今まで感じてきた悩みとか課題と全部繋がっていて、嬉しく思いました。

 まだまだ、理解できる範囲は狭いと思うし、自分が何に苦しんでいたかは分かっても、じゃあどうしていったらいいのかが分からなかったり、間違ってしまうことも多いかと思うのですが、少し解決の見通しが立っただけでも安心したし、ちゃんとなのはなでの生活や、普段の日常の中で感じることを積み上げていき、より自分の魂を磨いていけるように、成長していきたいです。