11月13日
昨日の音楽合宿でのことなのですが、印象に残ったことが2つあります。
ひとつは、『オーガスタス・グループ』の演奏を体育館で合わせたときの、あゆちゃんの言葉です。楽器の音を、縦にぴったりと重なる羊羹に例えて話してくれたことが、印象的でした。一番上の羊羹が、主旋律を吹く人。その下が、主旋律と同じ動きでハーモニーを吹く人。その下が、伴奏。それぞれ色の違う羊羹がすき間なくぴったりと縦に重なっていて、曲の中で主旋律を吹く楽器が変わっていくのは、その羊羹の位置が移り変わっていくイメージだと、話してくれました。そのときに、音がバラバラに散らばるのではなく、ピッタリとくっついていて欲しいと話してくれました。自分が主旋律のときは一番上の羊羹で、自分が伴奏を吹くときになったら、瞬時に下の段へ移動する。
そのあゆちゃんのお話がおもしろくて、それは他の曲を演奏するときにも言えることで、しっかりと覚えておきたいと思いました。アンサンブルでもコーラスでも、あゆちゃんと練習すると、その曲のイメージがよりカラフルになります。そして、演奏のアドバイスをもらいながら、生きる上で大切なことを教えてもらっているように感じます。
何度も何度も曲を合わせて、最後は、お母さんとおとちゃんとたけちゃんが、前で聞いてくれました。お母さんが、「こんな短時間で上手になったね」と、言ってくださいました。その後に、あゆちゃんが、言いました。
「みんなは、これくらいに吹ける実力はある。それを、一発で出せるようになって欲しい。本番は1回きりだから。一瞬で気持ちを作って、このように吹くというプランを持って、一発で、この曲のおもしろさを出せるようにならなくてはいけない。これは、生きる上でも大切なことだよ」
本番にやり直しはありません。1回1回の練習を、これが本番だったら私はこう吹くというプランを持って、本気で向かいます。
あゆちゃんの指揮で何度も曲を合わせていて、お父さんがハウスミーティングで話してくださった、演じることの大切さを感じました。演奏をするとき、自分が担当する音を吹くのは自分に与えられた大切な役割で、ひとつの音楽を作るひとつのピースとして私にはその音を吹く責任があって、そこにはどんな言い訳も通用しません。私は出来るし出来て当たり前だ、このパートをしっかりと吹くのが私の責任であり使命だ、と強く思い込まなくては、理想とする音は吹けません。素の私では吹けません。何者かを演じなくては吹けません。
そして、何物かを演じて演奏出来るようになるには、普段の生活から、その場に合った人格を演じることが出来なくては、楽器演奏のように非日常的で高度な役を演じることは出来ないと、思いました。私はもっと、普段から、演じる意識が必要です。前の日記にも書いたように、私はオドオドした弱い人をやめて、しっかりとした大人を演じます。私は出来ます。
もうひとつ、印象に残ったのは、夜の係のリーダー会議でのことです。夜の練習の時間をどう作るかというお話になったとき、あゆちゃんが言いました。
「みんなが日記を書く時間は、なくしたくない。日記を書かなきゃ、コンサートをやっている意味がなくなっちゃうから」
私は、その言葉を聞いて、背筋が伸びました。やるべきことに追われていると、手段と目的をはき違えてしまいがちです。コンサートは、私たちの気持ちを作るための大切な手段なのだと、思いました。私たちの伝えたいことを多くの人に向かって表現する、という大切な役割もあります。
表現することを通して自分を作る、ということを決して忘れてはいけないです。