「プレイヤーとして」 えつこ

11月5日

 今日も嬉しいことが盛りだくさんでした。毎日毎日が濃いです。どれくらいに濃いかというと、金土日の3日間お仕事を休んで、また月曜日にお仕事に行くと、まるで3週間ぶりにお仕事に行くような感覚があります。それくらいに、なのはなで過ごす1日は1週間分くらいに濃いです。

 嬉しいことひとつめは、あけみちゃんのお誕生日です。私は、あけみちゃんの表現している姿にいつも、目が釘付けになります。あけみちゃんの踊る姿もですが、表情と目力に、心を動かされます。求める気持ちの強さ、まっすぐさ、優しさを感じます。
 『Oblivion』の朗読も、とても心に残っています。芯のある声と、まっすぐな眼差しから、あけみちゃんの気持ちを感じて、私も自分をさらけ出す勇気が湧いてきました。

 普段の生活でも、あけみちゃんの表情の美しさに惹きつけられることがたくさんあります。いつでも、自分を捨てて人のために全力を尽くす姿が本当に綺麗で、私もそうでなくてはいけないと、あけみちゃんに気持ちを正されることがたくさんあります。その心の美しさが、ダンスでの表現の美しさに表れているのだと思います。あけみちゃんのことを尊敬しています。

 もうひとつは、文化祭の本番です。今日は、ウォッチャーの時間を1秒たりとも作らず、プレイヤーとして美しくいようと、決めていました。舞台袖にいるときも、ホールのスタッフの方や、他の出演者の方が見ています。舞台に立っているときだけが表現ではなくて、舞台袖にいるときや片付けのときも、いつでも表現者でいなくてはいけません。そうして過ごすと、普段の生活からの魅せる意識が私は低いな、というのを感じて、もっと普段から表現者として過ごさなくてはいけないとも感じました。

 『ビリーバー』のときは、自分もステージに立っている気持ちで、舞台袖からコーラスを歌いました。『ビリーバー』はイベントで何度もやっていますが、今日舞台袖で歌っているとき、「痛みが私の信念を作った」というこの曲のメッセージを、より強く心に感じました。昨日のお誕生日でのお父さんとお母さんの言葉があったからだと思います。
 『ウリリ』のときも、コーラスはなくても、舞台袖の空気感も表現のうちだという気持ちで、舞台袖に立っていました。
 『ビューティフルピープル』では、仲間や、未来のなのはなファミリーのために、魅力的な自分を演じる気持ちで、踊りました。これは、金時祭りの練習のときにあゆちゃんが教えてくれたことです。自分を魅力的に魅せることが仲間を守ることに繋がる、という言葉は、それからずっと大事にしています。
 踊っているとき、みんなと心がひとつになっているのを感じました。どうか、誰かに気持ちが届きますように、と思いながら踊りました。やはり、表現することが大好きだと、思いました。

 それから、ホールに行くことで、コンサートに向けてのイメージトレーニングにもなりました。今日は、トロンボーンを吹く演目はなかったですが、待機をしているときなど、ここで音出しをして、ここに楽器を置いて、ここからマイクを出して……など色んなことをイメージすることができました。また、ステージ上でトロンボーンを吹いているところを、よりリアルにイメージすることができました。これから練習をするとき、自分がステージに立っているイメージを持って、練習したいです。

 そして、夕方の、脚本会議の時間がとても楽しくて、脚本のことやコンサートの意味についてなど、気持ちが深まる時間でした。お父さんとお母さんのお話を聞きながら自分なりに考えたり、みんなの感想や意見を聞いていると、より脚本についての理解が深まり、その時間がとても楽しかったです。自分の脚本に対する理解の浅さを感じ、もっともっと読み込んで、自分の中に入れたいです。
 そして、お父さんとお母さんのお話を聞いていて感じたのは、お父さんとお母さんは、私たちのためを思って脚本を書いてくださっているのだということです。なのはなでコンサートをすることの意味の深さを、感じました。コンサートを通して、みんなで手を繋いでゴロンと良くなりたいです。

 コンサートに向かっている中で、ひとりひとりの存在の大切さをとても強く感じています。何が出来るか出来ないかの競争なんて、本当に意味がないんだと、練習に向かっている中で気がつきました。誰一人として欠けても良い人はいないです。なのはなのコンサートを作るひとりであることをとても誇らしく感じます。ひとつひとつを大切に演じたいし、なのはなのステージを作るひとつのピースとして、力を尽くします。