「保障のない生き方」 るりこ

3月7日

○保障のない生き方

 久しぶりの日記になってしまいました。
 日々、書きたいことがたくさんありましたが、時間を取れずにいました。
 でも今日は作文が追いついたのと、どうしても書き残しておきたいことがあったので、言葉にして残します。

***
 ミーティングが進み、日々、小さな気づきがあります。
 今日は5つのグループに分かれて、チームごとにお父さんから課題として上げてもらったテーマについて、話し合い、考えを深めました。

 先日、お父さんと面談をさせていただいたとき、お父さんが、
「エリート意識を持つのは悪くない。むしろ正しいエリート意識は持っていて良い。そういう意味では、僕はずっとエリート意識を持って生きてきたし、今も持っているよ」
 と話してくださいました。
 わたしはその言葉がびっくりしたけど、その意味が今日の話し合いのなかでより具体的になって、自分の中の価値観が変わっていくのを感じました。

 わたしが持っていたエリート意識は、間違ったエリート意識でした。
 小学5年生のときからエリートの道を進むことを決めたわたしは、有名国立大学にさえ進学すれば、エリートへの切符を手にすることができると信じていました。
 でもそこに大学に進学して何がしたいのかということは考えになく、ただ「有名国立大学進学」という肩書きを欲しかっただけでした。

 エリートになれば、自分のポジションが守られるような気持ちがあったと思います。
「わたしは○○大学に入ったんだ」とさえ言えば、世間から一目置かれた存在になれて、そうなれば人の上に立つこともできて、本当は中身のない自分に気づかれることなく、「すごい人」として評価を受けながら、苦労することもなく生きていける。
 肩書きがあるだけで、人生が保障されたも同然で、それさえ持っていたら、人の上に立って、惨めな思いをせずに生きていける。
 そうなりたかったから、とにかく「大学進学」という札が欲しいと思ってきました。

 つまり、わたしにはエリートと言われるポジションになることで、やりたいこと、その先の目標というものがまったくなかったです。

 真のエリートについて考え、話し合って、お父さんがおっしゃっていた「エリート意識は持っていてよい」というのは、方向性によると、みんなの意見として上がりました。
 自分が間違って持っていたように、エリートになることが自分の評価を得るため、自分を守るため、とか、目的が「自分の利益」に繋がっているものは、持っていてよいエリート意識ではないです。

 例えば、「医者になりたい」という目標を持ったとき、医者になることでお金が稼げるとか、生涯、人の上に立って楽をして生きられるから、というのは自分のためです。
 でも、医者になることで、やりたいことがある。それも新しい価値を生み出すものであったり、まだ誰も成し遂げたことのない医療の実現を目指したいというように、まだ見ぬ誰かに影響を与えるような目的があって、それを達成するために医者になる、というのであれば、同じ「医者の道を目指す」でも、エリート意識が180度違います。

 エリートになる、と言うと、わたしはどうしても職業に目が向いてしまうのですが、職業はあくまで「手段」であるということも、前回の作文を書いていてわかったことでした。
 世の中から見て、一般的に位の高い職業はあるけれど、どんな職業であろうと、それは手段でしかなくて、必要なのはその手段を通して、自分が何をしたいのか、世の中にどう貢献したいのかということが肝心なのだと思いました。

 だから、真のエリートとは、世の中に新しい価値を生み出して、誰かに影響を与えるために、既存の価値を超えていきたいと向上心をもって、その熱量を正しい方向に向かって使える人だと思いました。
 「よくありたい」という上昇志向を、自分のためではなく、人のため、世のために使える人が、真のエリート意識なのではないかと思いました。
 そのときに、自分が果たしたいと思う目標に向かうための一つの手段としてあるのが「職業」であって、それがどんな職業であるかは(世の中から見てエリート的なポジションであるかどうか)問題ではないのだと思いました。

 

 そして今日の1番大きな気づきは、午後、桃畑で摘蕾をしていたとき、突然、頭の中に浮かんできたことでした。

 それは、「わたしがエリートになりたい、ならなければいけない」と思っていたのは、「保障が欲しかったからだ」ということです。

 ずっと、自分に自信がありませんでした。
 自分には取り柄がない、何も際だってできることもない。
 そして1番は、そんな自分がこの先、一人の人間として生きていく自信がない。

 自分には何もないと思ったとき、勉強してエリートになれば、自分も価値のある人間になれるような気がしました。
 そしてエリートになるために、勉強を死ぬほど頑張りました。
 勉強をしているときだけ、自分がこの世界に存在することを周りから認めてもらえているような気がして、『勉強している自分=価値のある人間=エリート(勝者)』という考えが自分の中にできあがってしまいました。

 エリートにさえなれば。世の中から見て評価を受ける肩書きを手にすれば、どんなに自分がダメな人間でも、「あなたは立派な肩書きがあるので、生きていけます」「あなたは○○の資格があるので、安定した職に就くことができて、生きていくことができますよ」という、人生に対する保障が得られるように思っていました。
 エリートになることは、自分の自信のなさや、できそこないの自分を守ってくれて、こんな自分でも生きていくことができる保障を与えてくれる、「生き抜く武器」のように捉えてしまっていました。

 だから今でも、学歴はもう必要ないとわかっていても、どこかエリート思考が拭いきれないでいたのは、何か特定の職業についたり、資格を得ることで、「あなたは働くことができる」「生きていけます」という人生の保障が欲しかったからなんだと、自分のことながら自覚し、それと同時に、わたしはエリートになることよりも、ただ保障が欲しかったのだということに気がつきました。

 真のエリートに、保障はないと思います。
 むしろ、新しい価値を生み出すために、まだ誰も成し遂げたことのない理想を実現しようと願って生きていくことは、「医者になって大儲けしたい」という自分よがりの欲や、誰かの人生を真似た生き方をなぞることよりも、絶対に叶う、という保障はないと思います。
 でも、保障のない生き方でも、自分は果たすべき役割に向かって生きていきていくんだという勇気を持てる人が、お父さんのように真のエリートなのだと思いました。
 そこで保障を求めて、保障のない人生ならやめる、と諦める人は、真のエリートではなく、また、正しいエリート意識ではないということの裏返しになるとも思います。

 わたしはまだどこかで保障が欲しいという気持ちがありました。
「あなたは生きていくことができますよ」という印籠があれば安心できる気がしてしまうから、何か特定の仕事に就いたり、あるいは高いポジションを得なければいけないような気がして、一人で勝手に焦ったり、もう人生を挽回できないという発想に陥ってしまうのだと思います。

 でも人生に保障を求めてはいけなかったです。
 仮に保障を得た瞬間、わたしは人間として必ず堕落していきます。
 保障は、自分をろくでもない人間にまで落とすと思います。

 先日のミーティングで長期目標を立てました。でもその目標が本当に実現するという保障はありません。
 でもわたしはそこで逃げたり諦めたりするのではなく、必ずやり遂げるのだと信じて進んでいく。
 そのときに正しいエリート意識(上昇志向)を持つのは良いことで、むしろそれは大きな力に変わって、本当に実現させることができるのだと思いました。

 お父さんのように、勇気を持った、真のエリートになっていきたいと思いました。
 向ける方向性を自分のためではなく、「まだ見ぬ誰かのため」に変えて、保障がなくても勇気をもって、前に進んでいきたいです。

***
 Eちゃんと、卒業生の医学部合格のニュースがとてもとても嬉しかったです。仲間が未来に向かって道を切り拓いていく姿に、わたしも大きな希望と勇気をもらって、わたしも頑張ろうという気持ちになります。