「こだまのように」 みつき

5月24日 

 

*ピーマンに祈る気持ち

 

 下町川の畑にピーマンの植え付けをしました。

 みんなが畝立てをしてくれていた、綺麗なかまぼこ形の畝がずらりと並んでいました。表面の土はゴロゴロと固かったのですが、掘ってみると中の土はさらさらのままでした。

 まえちゃんが「土を中耕して、ピーマンの根っこをほぐしてあげてから植え付けよう」と伝えてくれました。そのさらさらの柔らかい土につつまれたピーマンはとっても気持ちよいだろうなあと思えました。 ピーマンの苗の鮮やかな黄緑色の葉っぱがみずみずしくて、苗自体も元気そうに見えました。根っこをほぐすときも、株元に土を寄せるときも、丁寧に触れたくて、どこか祈るような気持ちでした。
 2チームにわかれて端と端の畝から次第に真ん中へと進んでいて、気がつけば、目の前によしみちゃんやるりこちゃんが近づいてきていました。みんながもくもくと植え付けをしていて、その静かさはそれぞれの子のピーマンへの祈る気持ちで、みんな同じだったのだろうなあと感じました。

 ピーマンが根っこを伸ばしていき、そして葉っぱを茂らせていく様子が見える…そうやって、みんなで自信を持ってピーマンを送り出せる植え付けができて、嬉しかったです。

 

*こだまのように

 

 今日のお父さんお母さんの集合のお話が嬉しかったです。他の子が入れてくれた質問でも、今まさに自分が必要としていた言葉だ、と感じるような、ものすごく通じていて共感できる言葉ばかりでした。

 お母さんが、本当は子供の頃体験した、鳥の雛に餌当番のエピソードがとても悲しくて忘れられない出来事だった話。それをお父さんの言葉で初めて気がついて涙が出てきてしまった…その気持ちがとても分かるなあと感じました。自分で閉じ込めてもう無かったことにしようと思っていたこと、これはなんてことなかった、と蓋をしていたことを、お父さんお母さんが、ポンと蓋を開けてくださって、外へと引っ張り出してくださいます。お父さんお母さんが「お母さんは、寂しかったんだよ」と話してくださったとき、

「そうか、他の人はたいしたことじゃなかった、と思っていたとしても、そのとき自分は本当は寂しくて悲しかったんだ」

と気がついたとき、その言葉でスッとそのときの子供の自分に戻ったように涙が出てきます。

 今日の集合でもなぜか涙が出てきそうでした。何でこんなにも自分の気持ちがわかるのか、今のわたしに話をしてくださっているようだ、と感じました。理解してくれる人がいることは本当に嬉しいことで、もっとわたしも人の喜びも悲しみも全部理解できるような深さを持ちたいし、もっと言葉にしていきたいです。

 自分の損得勘定とか濁った気持ちを抜きにして、透明になった自分が持っている「これくらいが当たり前」を見て生活していきたいです。

 そして、自分の心は自分が知るんじゃなくて、他の人を通じて知るんだなあということをいつも忘れないでいたいです。自分が楽しいという気持ちが相手も楽しくさせる、自分が出す気持ちが相手の気持ち、こだまのようだと教えてもらって、楽しいことを見つけて発信していきたいです。