「赤い椅子」 ほのか

2月18日

 今日は、ミーティングのテーマ1で理解を深めたことについてOMTをさせてもらいました。5分×4人10回しで、たくさんの時間OMTの時間をいただきました。最初は、そんなに長い時間話し続けられるか、集中力が続くかどうか不安なところがありました。けれど、5分というものがものすごく一瞬で、17時になっても、まだ話せそうなくらい、言葉が次々に溢れてきました。それを声に出してその場にいるみんなに聞いてもらい、みんなが真剣に共感してくれていることを感じました。心の奥底がじーんと暖まるのを感じました。みんなが、それぞれ今回のMTで理解した利他心についての解釈、なぜ自分を守ってしまっていたのか、何が苦しくて、利他心を持てなかったのかも全て包み隠さずに話してくれて、お互いのことに対する理解もより一層深まったように感じます。正しく生きていきたい、ちゃんと生きたいという気持ちを皆持っているから、一人が言うことは皆自分の事のように深く共感できたように感じます。皆自分が壊れてしまうくらいの、最悪の所まで一度は行ったからこそ、もうそこには戻れないという覚悟を、一つひとつの言葉から染み渡るように感じた3時間でした。

 話しながら理解が固定化されていくようで、みんなの話を聞きながら自分も話していく中で、新しく気づいたことがありました。それは自分にとっては大発見でした。
 
 私の中で利益、得、あるいは愛情というものは、一部の人、極端な話一人しか勝ち取ることができない王者の椅子でした。私の心の中にはずっとピラミッド状の階段があって、頂点には一人しか立つことができない。そんなルールがありました。そこに腰掛けるために押し合いへし合い、他人を蹴落とし競争しながらその座を奪い合う、みたいな気持ちがありました。(韓国で、アイドルがそんな風にオーディションしている番組があったのを思い出します)
 利益を一人で囲ったら、それらは莫大なものに積み上がる、でも他の人の分はゼロ。他がどうであれ、自分がその椅子に座って良い味しめて、その座にふんぞり返っていたら、幸せになれるんだとずっと思ってきました。
 それはまさに利己心の考えでした。そういう気持ちで人や物を見ていたから、私は序列で人を排除する気持ちがありました。できない人は最下層へどうぞ。できる人は2位くらいへどうぞ。できない人は、極力自分から遠ざけたい。みたいな。王座に座るのは、絶対自分でなくちゃ嫌だ。私が最下層に相応しい訳がない。みたいな。
 最低な、そういう人を排除するこだわりが何につけてもありました。
 
 そんな自分は、ヒトラーと同じだと思いました。
 
 椅子が一つしか存在しないと思っていたときは、他の誰かが褒められたりしているのを見ると、急に自分がいたはずの赤い椅子に見知らぬ誰かが勝手に座っている感覚で、とてつもなく違和感のようなものを感じていました。やめてよ、その人(好きな人)からもらう愛情が、私の分が無くなってしまう。と焦るような気持ちがありました。
 人の良いところに正面から目を向けることができなくて、褒められている人を目の端に見て心から尊敬できない。「ま、私もできるけどね。」といくら自分がその人に比べて全然できていなかったとしても、自分で自分を愛するほうに向かっていました。でも実際はそんなチャンピオン決定戦みたいな会場は無くて、利益があっても、それを自分だけのものにするのではなく、全体の利益にすることが正しいのだと気づきました。一人当たりに分配される利益は独り占めしたときより少なくなるかもしれないけれど、必ずしもそれが不幸せになるとは限らない。どんなに自分がズタボロでも、自分より恵まれない人に与えてこそ、生きる意味が生まれるのだと学びました。幸せだと言うこと、豊かだということは、お金や物質量では計れない。どれだけ物質的に恵まれているお金持ちでも、孤独がつきまといいつまでも満たされない気持ちになる。
 愛情は分配するシチューのような物では無かった。私は幸せの求め方が間違っていました。
 愛情は、理解し理解されること。誰かと共感し合う日々が、幸せだということ。コンサートで学んだことが、確かに自分の中で繋がったような気がします。
 
 傷ついて生きてきたことが、これから社会で生きていく上で、自分たちのてこになると思いました。最悪なところまで経験したからこそ、中途半端な生き方は許されない、それこそお父さんが仰っていたように、「警察に見つからなければ何やってもいい、摂食症の人は自分が利己心を持っていたら、警察も他の人も気づかなくても自分の心の中で見つかってしまう」のだなと思いました。
 動物や植物、自然が利他的な環境の中で共生しているように、私たちも本来は利他的な生き方ができるのではないかと思いました。本来利他的な生き方が望まれているのではないかと思いました。利他的な生き方というものは、私は正しく生きていくのだという意志を神様に示すことでもあるのではないかと思いました。