2月14日
・「安心するには」
昨夜の集合で、お父さんから、「安心するには、自分が『安心させる側』になる」ということを教えて頂きました。
見捨てられると生きていけない不安を持っているのは、一人で生きていけない6歳までの子供で、7歳からはストリートチルドレンだってできる。
わたしだって、もう見捨てられたって、自分で仕事を探して、症状が出るかでないかは横に置いて、働いて生きていけるのは分かります。
それでも、見捨てられることに不安を感じているのは、いつまでも人に寄りかかって生きていこうとしている、人に媚びて、守ってもらおうとしている、ぬくぬくした姿勢が原因であり、自分で立とう、自立しようという気持ちが必要なのだと教えて頂きました。
わたしは、いまだに、当たり前のように守ってもらおうとしていることが、ものすごく恥ずかしいことに感じました。
そして、人に媚びたりとか、反発的な気持ちを持つのは、守ってもらいたい、安心させてもらいたいとか、そういった、受け身の、与えられる側でいるからであって、今後一切、そういう気持ちは捨てると、決めました。
そういう、べたべたした、気持ち悪いことは、自覚してもなお持ち続けるのは嫌だと思いました。
お父さんは、与える側の心持や行動を教えてくださいました。
「自分が誰かを安心させる人になる。そしたら、ずっと自分が安心していられる」
「自分がハウスミーティングで、お父さんやみんなに教える人になる」
「自分がお父さん、みんなを助ける人になる」
「足りないところに気が付いて、そこをフォローすることが出来る人になる」
教えてもらった、全てを意識して、自分の欠落を埋めていきます。
「助ける人、助けられる人というのは、なのはなファミリーにはない」
「安心させてもらう人、安心させる人というのも、ない」
「みんながスタッフの気持ちでいてくれて構わない」
「ここは、やってあげる人になる練習の場所」
わたしは、沢山の中の入居者の一人で、出来の悪い、利己的な人間だから、スタッフとかにはならないし、リーダーにもならない。
自分から率先して何かをやろうと提案したり、責任を持つこともない。
誰にも何もお願いされないでいいし、それが自分の身の丈にあっていると思っていました。
でも、それでは進歩がないし、いつまでも与えてもらう側なのだと思いました。
そういう生き方では、自分の人生の中身は詰まらない、スカスカになってしまい、摂食症になったわたしは、そういう生き方は一見出来そうで、実際はできないのも、これまでお父さんお母さんのお話を聞いていて、分かります。
わたしは、自分という人間がいかに恥ずかしい人間かを、知っているつもりで、生きています。
自分が、自分と同じくらいに悲惨な状況にある人の、回復の道を作るために、自分はここにいるし、お父さんお母さんは、そのためにわたしをここに置いている要素はあると思います。
わたしは、わたしの為にあるのではなくて、まだ見ぬ誰かの為にある。自分と同じ欠落を持った人に出会ったとき、わたしはちゃんと、答えを与えられる人になりたいです。
だから、ちゃんと、与える側の姿勢、利他的な姿勢を自分の基礎に根付かせていけるように、行動を変えていきます。
昨日、読んだムヒカ大統領のお話の中に、「個人は社会に依存していて」というお話がありました。
自立とは、一人で生きていくことではない。
人と敵対するのではなくて、どれだけの人と助け合うことができるか、だと思います。
誤解を恐れずにいえば、人に個性はいらず、誰もが誰とでも替えのきく人間であるのが良い。
今いるなのはなファミリーという社会の中で、自分は、ある程度は高いレベルで何でもできて、誰とでも替えの利く人間となっていく。
