1月5日
午前中にユズの下処理の作業に入らせてもらいました。ユズジャムになる子たちです。ユズを洗い、半分に輪切りし、しぼり、種を取り、薄皮、筋をはがし、みじん切りにし、皮を刻み、というところまでさせてもらいました。思ったより工程が多い! 手間が掛かるのだなと思いました。けれど手順が確立されており、ひとつの作業をしている間に他の人が別の工程を進める、洗い物はまとめてこのときにやる、など、りなちゃんが今まで作ってきてくれた流れの中で、スムーズに進みました。外皮を幅何センチ、厚さ何ミリという細かな数値まで全部りなちゃんが覚えていて、何の資料も見ずに指示していて、すごいなと思いました。ユズの薄皮をみじん切りすると、にんにくのみじん切りのような色と形状になりました。あっというまに時間が過ぎていき、とても楽しかったです。今もまだ、手のひらにユズの香りが残っています。
午後は、梅の剪定に入らせてもらいました! ずっと徒長枝が気になっていて、やりたいと思っていたことでした。始めにユーノスハウスのビニール掛けをしました。久々の外作業で、作業着を着て長靴を履いて外に出ると、空気が澄んでいて気持ちよく、頭がしゃきっとしました。楽しかったです。
その後の時間、みんなで梅林に行きました。今日は外の方が暖かく、雪もおおむね溶けていました。動きやすい気温でした。
早速梅の木のそばに近寄ってみると、蕾がもうふくらみ始めていて、小さな梅の花がもう咲く準備をしていました。年が明けたと思ったら、もう梅の花が咲く頃になるのかと思い、早いなと思いました。
いつもこれを見ながら走っていたなということも思い出して、マラソン練習が楽しみになり、早くランニングしたいなという気持ちになりました。
「理屈が分かっていた方が、やっていて楽しいので」
と言ってさくらちゃんが剪定の動画をみんなに見せてくれました。
串状の短果枝は良い実をたくさんつける。枝は根元から切り落とさないと、枯れ込みが広がる。主枝に逆らうようにして伸びた亜種枝を切っていく。
動画はとてもわかりやすかったです。いざ実践。さくらちゃんが切る場所を指示してくれて、よしみちゃん、ゆきなちゃん、ここのちゃんとわたしでノコギリでそこを切っていきました。のりこちゃんとみゆちゃんは専属で徒長枝を切っていく役割で動きました。電動剪定ばさみを手にしたのりこちゃん。スイッチを押してシュッシュッ、ウィンウィンとロボットのように動く刃に、目をぱちくり口角を上げて微笑んだのりこちゃんの顔。その嬉しそうな顔がとても可愛くて、目が合ったときお互いに吹き出してしまいました。
よく見てみると、切りたいところはとても大胆な場所で、切り倒してしまうのがもったいないくらい大きな枝でした。ノコギリを腰に差して刀のように差し抜きます。切り捨て御免……!! ちょっと可哀想に思ってしまいましたが、梅はびゅんびゅん新しく生えてくるので大丈夫ですよ、と、さくらちゃんとよしみちゃんが教えてくれました。これも良い将来のため。思い切って枝を切り落としていきました。枝がひとつ、またひとつと倒れていくたびに視界が開けていきました。広がっていた梅の木がすっきりしていき、みんなに切ってもらって梅の木が喜んでいるように感じました。
梅林はほぼ直線上に木が並んでいるので、次はここ、次はここ、と言う風にどんどん奥まで進んでいきました。ステージをクリアしていくようなゲーム感覚で、勢いがありました。残りはあと2本と細かい剪定というところまで進めることができました。みんなで良い空気の中進めることができ、嬉しかったです。
夕方は月曜日のハウスミーティングに参加させていただきました。
そこで気になっていたことをいくつかお父さんに質問させていただきました。
お父さんの答えはどれも視界が開けるような、自分には全く無かった発想で、そうだったのか! と思いました。
質問1、先日お誕生日占いを読んでもらったとき、アドバイスで「ありのままの自分を受け入れる」と書かれていました。けれど私がありのままの自分を受け入れてしまったら、まずいんじゃないか。摂食障害の人がありのままを受け入れて良いのか?
答え お父さんはそれを聞いたとき、ああ、その通りだなと思っていた。私はいつも「今の自分は仮の姿だから」という前提でいて、みんなと同じはずなのに、高みの見物をして評論家っぽいことを言ってしまう。あれ? 本気出さないの? と周りに思われるような、雲の上の存在に自分を置いてしまって、一番最後に発言する、みたいになってしまっている。周りと周波数が合っていない感じがある。それは、今の現実を直視していない、受け入れていない、ということと同じ。それをなくすために、今を保留にしない。いつまでも仮の姿でいない。これが本番。今が全て。今が勝負、実力を見せるなら今。恥をかいても良い。お父さんは中学性の頃もう取り返しがつかないことを義務づけるために万年筆を使うようになった。私はその質問を鉛筆で書いていた。私も万年筆を使ったらどうか。本気を出さないというのは今までの自分の危機回避の方法だった。逃げ方だった。
今の延長が未来であって、今が全て。ありのままの自分を受け入れる、ということは今を受け入れるということ。
確かにその通りだと思いました。薄々自覚はあったけれど、いつも理想の自分を追いかけるような、今に焦点を定められていないところがあったと思います。人と一緒にいるときも、どこか埋没しきれないというか、斜め上からの変化球でしか生きられないところがあると思います。実際、ちぎり絵にもそれが明らかに表れていました……。
自分では地になっていて気づけないところでも、お父さんがいつも教えて下さり、目が覚めたようなしゃきっとした気持ちになります。そうやって生きて行ったら、微妙な周囲とのズレや違和感が無くなるのだと思いました。邪魔な枝が切り落とされて視界が広がった光景に似ていると思いました。お父さんはいつもわたしの生きている狭い世界をよく知られていて、本当のことを教えて下さいます。そのとき、ぱっと光が差して視界が広がります。自分ひとりでは広げることが難しい世界に、いつもお父さんが導いて下さいます。
そうやって脱皮しながら生活できる、というなのはなの生活が、ありがたく幸せなことだと感じます。
