第32回『パンジー』
「今日、学校が終わったら、家に来ない?」
僕は返事をするのも忘れて、
ぽかんと口を開けていただけかもしれない。
密かに憧れていた女の子に、
思いがけず、自宅に誘われたのだ。
僕は夢見心地のまま、彼女の家を訪ねた。
大きな屋敷の広いダイニングで紅茶を飲んだあと、
案内されて、裏庭に出た。
一面に咲き揃ったパンジーの群れ――。
時が止まった。
魔法にでもかけられたような、
静寂の空間。
いつもの静かで、
深い思索の中にいる彼女が、
パンジーと饒舌に心を通わせているのを、
ただ、ただ、見とれていた。
目の前のパンジーに目を凝らすと、
いまでも、瞬時にその中庭の情景へと誘われる。
遠く手の届かない憧れの世界、
どこまでも深い情緒の海。
その美しさの欠片でも受け止めたらと、
あの時と同じように、僕は息を止め、
己の気配を消すしかないのだ。